大河ドラマで学び直せる日本史 運の強き篤姫・御台所への道2(『西郷どん』第12話)

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前回は、徳川家定の不幸な結婚生活や、島津斉彬や近衛家の利害が一致し、島津家の分家の姫君(島津斉彬のいとこ)である一子(かつこ)が、斉彬の目に留まったという話を紹介しました。

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ちなみに彼女は、『西郷どん』のドラマでは於一(おいち)と紹介されています。

篤姫の幼名なのですが、文字のみ伝わって、読み方まで伝わっていないのでしょうね。

篤姫の人柄 実はとっても愛犬家!

当時17歳の一子は穏和で忍耐力があり、人と接するのも上手だったようです。

ドラマでは描かれませんでしたが、実は大の愛犬家で、当時流行していた狆(ちん)を多頭飼いしていたようです。

狆ってどんな犬なんだろう?と思ったので、「みんなの犬図鑑」サイトから写真をお借りしました。可愛いですね。

西郷どんと同じ犬好きという点で、気が合ったかもしれません。

やがて一子は斉彬の養女となり、1853年3月に名を篤子と改めて、幕府に斉彬の実子であると届を出しました。

これ以後彼女は「篤姫」と呼ばれることになるのですが、これって現在なら「経歴詐称!」と非難されかねないやり方。

実際『西郷どん』のドラマでは、井伊直弼がズバリと指摘していました。やはり真実は隠し切れないものです。

側室でなく、正室として

名門大名の薩摩藩主・島津家ですが、征夷大将軍と比べれば、思い切り格下の外様大名。

関ヶ原の戦いでは、徳川家の敵となった過去もありました。

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2018.02.12

一橋慶喜の父である水戸藩主・徳川斉昭は、「東照宮(家康)の御敵」であった外様藩の姫君を御台所にすることに、徳川一門として強い憤りを感じていました。

徳川の敵であった格下の島津家からの輿入れでは、篤姫は側室となってしまう可能性もあったのです。

島津斉彬は、11代将軍の御台所であった薩摩出身の茂姫(広大院)の例に倣い、篤姫を近衛家の養女として輿入れさせるべく、老中の阿部正弘や大奥の女中と連絡を取ったりしていました。

ペリー来航と家定の将軍就任

1853年6月、ペリー艦隊が浦賀に上陸し、フィルモア大統領の国書を渡し、翌年の再来を約して退去しました。

この混乱のさなか、7月に12代将軍・徳川家慶(いえよし)が死去します。

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13代将軍には、病弱で政治に関心がなく、正室も子供もいない30歳の家定が就任しました。

これを契機に将軍継嗣問題が重要事項となり、一部の幕臣や大名たちは、将軍家定を補佐する有能な後継者を求めるようになりました。

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その候補者が、英明との評判が高い一橋慶喜です。

慶喜は水戸藩主徳川斉昭の子でしたが、水戸家よりも将軍継嗣の可能性の高い御三卿(ごさんきょう)・一橋家の養子となっていました。

当時、慶喜に期待する幕閣や諸大名は多く、彼らは「一橋派」と呼ばれていました。島津斉彬もその一人。

斉彬は篤姫を徳川家定と結婚させ、家定に一橋慶喜を将軍継嗣とするよう説得させようとしました。

渡辺謙さんと北川景子さんのお話が『週刊 西郷どん 見せもす!舞台ウラ第12回』で紹介されていましたが、篤姫の覚悟が切なすぎて、思わず同情。

家定と篤姫の結婚問題は単に島津家だけの希望に留まらず、一橋派全体の期待を担うものとなったのです。

なかなか進まない婚儀

1853年8月、19歳の篤姫は江戸に向かいましたが、前将軍・家慶の葬儀もあり、縁組の話は先送りになりました。

翌年には京都御所が焼失し、将軍の縁組よりも御所再建が優先されてしまいます。

このようになかなか婚儀が進まない中、篤姫はひたすら教育係の女中・幾島と努力して、御台所修行をしていたのでしょう。

その翌年(1855年)秋、ようやく年内12月に婚儀と決まりましたが、10月2日の安政大地震によって更に延期とされたのです。

この大地震は、江戸で震度6と推定され、犠牲者は約1万人と言われています。

水戸藩主・徳川斉昭の腹心だった家老の戸田忠太夫、また尊王攘夷を唱えた学者として知られる水戸藩の藤田東湖(とうこ)も、この地震の犠牲となりました。

大震災にもめげず

この大地震のシーンが、第12話のハイライトシーンでしたね。

鈴木亮平さんと北川景子さんのお話も、『週刊 西郷どん 見せもす!舞台ウラ』で紹介されていましたが、実際のところ、西郷どんと篤姫は、どんな距離感だったのでしょう?

「大柄で健康的な女性がタイプ」だったと伝わる西郷どんの憧れの女性は、やはり篤姫じゃなかったかなと、個人的には思えました。

この地震で、せっかくあつらえた篤姫の婚礼道具は灰燼に帰しました。

しかしこの婚礼に金を惜しまなかった斉彬は、衣服や道具類を自ら注文し、十分に金銀を使い、いくら高価なものでも既製品は禁じて、すべてオーダーメイド!

西郷どんも、京都の西陣の商人や職人と交渉したため、女性の着物などには目が肥えていたそうです。

地震でもケガ一つせず、婚礼道具も無事にそろった篤姫は、まさに「運の強き姫君」でした。

地震の翌年(1856年)7月、正式に近衛家の養女となった篤姫は、11月に名を「藤原敬子(すみこ)」と改め、12月18日についに婚儀をあげたのです。

この年家定は33歳、篤姫は21歳でした。

今回のまとめ

・篤姫(一子)は、年齢と人柄が島津斉彬の目に留まり、養女となって、将軍家の正室候補となりました。

・縁組の目的は、夫となった将軍家定に、将軍後継者として一橋慶喜を薦めるためのものでした。

・度重なる不幸な事件でのびのびになってしまった婚儀でしたが、島津家の力で安政大地震のダメージも乗り越え、近衛家の養女・藤原敬子として、婚儀をあげることができました。

この2人の結婚生活は、どのようなものだったのでしょうか。それはまた次回のお楽しみに。

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