一筋縄ではいかなかった篤姫の輿入れ
以前このブログでも紹介しましたが、11代将軍の御台所(みだいどころ)、つまり正室は、島津家の出身の茂姫(広大院)でした。
ところが茂姫の場合は、婚約者が急遽将軍後継者に決定したため御台所になったという事情があり、最初から「将軍の御台所」として選ばれた姫君ではありませんでした。
そのため外様である島津家の、しかも分家出身の篤姫(藩主・島津斉彬の養女となっていますが)を、13代将軍・徳川家定の御台所にするなんてとんでもない!という反対派も多く、なかなか縁組の話もすすまなかったのです。
徳川家定の孤独
さて、この徳川家定という人も、生い立ちを知るとなかなか気の毒な人でした。
父の12代将軍家慶(いえよし)には男子13人、女子16人の子供が誕生したのですが、成人できたのは家定のみ。
今と違う衛生状態なので、子供の死亡率が高いと言われればそれまでですが、何となく陰謀・毒殺のにおいを感じる人も、特に当時の江戸城にはいたでしょう。
家定自身も幼少時から虚弱体質で、人前に出ることを極端に嫌う性格だったようです。
将軍後継者として、18歳で関白・鷹司政熙(たかつかさ まさひろ)の娘・任子(あつこ)と結婚しますが、6年後に彼女は疱瘡(ほうそう 天然痘)を患い、25歳の若さで死去。
この翌年、家定は関白・一条忠良(ただよし)の娘・秀子と再婚しますが、彼女も結婚半年後に26歳で病死してしまいます。
秀子については上野寛永寺徳川墓所の発掘調査により、身長は1m30cm、脛(すね)の骨や歯に極度の変形が見られ、成長期に何らかの病気にかかった後遺症が見られるといいます。
また彼女の死因については、輿入れで京都から江戸へ向かう道中、足に負った火傷の後遺症とする説があるそうです。
秀子さんの結婚生活は、果たして幸せだったのでしょうか。
家定にしても、妻が続けざまに若くして亡くなったというのは、とても大きな精神的ショックだったに違いありません。
いずれも家定が将軍に就任する前の出来事で、彼女たちは将軍後継者の正室として「御簾中(ごれんじゅう)」と呼ばれていました。
家柄より健やかさ! 幕府や大奥の願い
一条秀子が病死したのは、島津斉彬が藩主に就任する前年のことでした。
将軍後継者も病弱、御簾中も病弱では、お世継ぎの誕生はおろか、1,000人とも3,000人とも呼ばれる大奥の女中たちを束ねることができません。
幕府や大奥では、病弱な公家の姫君よりもしっかりした御簾中を!という声が強く、薩摩藩に「年頃の娘はいるか」との問い合わせがありました。
薩摩家出身の茂姫(広大院)は長命で、男子(早世しましたが)を出産したこともあり、彼女の一族も繁栄しており、それにあやかって島津家から次の正室を迎えようという動きがあったのです。
このときは島津本家に適当な娘がおらず、話もそのままになってしまいました。
将軍の舅(しゅうと)になりたかった島津斉彬
ところが翌年、島津斉彬が薩摩藩主に就任すると、斉彬は積極的にこの縁談を考えるようになります。
斉彬は、外様大名でありながら幕府政治や対外関係に大きな関心を持っており、幕府と縁戚関係を結ぶことで、政治や外交を改革できるとしたのです。
斉彬を嫌っていた父親の島津斉興(なりおき)は、異母妹の郁姫(いくひめ)を養女にして、右大臣の近衛忠熙(ただひろ)に嫁がせていました。
この郁姫の輿入れに付き添い、京都の公家言葉やしきたりをマスターしたのが、あの幾島なのです!
さてこの近衛家は、藤原氏の嫡流である五摂家の筆頭として特別な家柄でありながら、家定正室の座を鷹司家や一条家に奪われ、悔しい思いをしていました。
近衛家にとっても将軍家との縁戚関係は利益のあることで、養女の形であっても近衛家から次の正室を出したいという希望が強かったのです。
藩主として初めてお国入りをする途中、斉彬は京都で近衛忠熙と養女の実子届について相談しています。
そのような斉彬の目に留まった「年頃の娘」が、斉彬の叔父にあたる今和泉(いまいずみ)島津家の島津忠剛(ただたけ)の娘で、当時17歳だった一子(かつこ)でした。
ドラマ『西郷どん』では於一(おいち)と紹介されていますね。これは幼名のため、呼び方は伝わっていなかったようです。
今回のまとめ
・徳川家定は、将軍就任前に、すでに2人の正室を亡くしており、自身も病弱でした。
・幕府や大奥から健康な正室を望む声が上がり、11代将軍の御台所だった薩摩出身の姫君の長命さにあやかろうと、薩摩藩に打診がありました。
・島津斉彬と近衛家との利害が一致し、「年頃の娘」だった篤姫を養女として将軍家との縁組を積極的に進めることになりました。
篤姫がなぜ、斉彬の目に留まったのか、そして彼女がどのような困難を乗り越えて、将軍家の御台所に決定したか、それはまた次回に。
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