大河ドラマで学び直せる日本史 版籍奉還とは(『西郷どん』第40話)

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島津久光も病気がち

いつのまにかお亡くなりになった薩摩藩の家老・小松帯刀(享年34歳)とまではいかなくとも、薩摩藩の国父・島津久光にも、大事な時に病がちだった時期がありました。

将軍徳川慶喜と雄藩連合との「オールジャパン体制」で政局にあたろうとするも失敗し、武力倒幕を決断した1867(慶応3)年、久光は病気でした。

それまでの度重なる上京(片道20日ほどかかることも)もあり、この時49歳だった彼も、そろそろお疲れが出たのではと思われます。

四侯会議失敗後、病身の彼は鹿児島に帰り、その年の秋からの大政奉還、王政復古、そして年明けの戊辰戦争などの幕末維新の激動を、鹿児島で伝え聞くことになります。

朝廷からの上京命令に病のため応じられず、わが子である藩主・茂久(忠義)が薩摩藩兵3,000人を率いて上京し、彼らが戊辰戦争の主力となりました。

久光には、「自分がもし、あの時健康であれば、京都で薩摩藩兵をこう使いたかったのに」という無念の想いがあるのでしょう。

成立直後の明治政府の急進的な改革は、彼が目指す姿とは異なっていました。

1869(明治2)年、勅使と大久保利通が鹿児島を訪れたのにこたえて上京しましたが、従三位に任じられると、その7日後に鹿児島へと出発しています。

ちなみに西郷隆盛は正三位! 東征大総督府下参謀や彰義隊戦争、北陸戦争の功績を評価されたのでしょう。

これも久光には、面白くなかったのかもしれません。

面白くないことが多いと、体調も悪くなります。

大政奉還の次は版籍奉還

大政奉還が行われた後、今度は版籍奉還を行うべきだという主張が、いくつかの藩から提案されます。

明治政府は外国と対抗するためにも、軍隊編成や武器購入、殖産興業などに莫大な費用がかかるのは、誰の目にも明らか。

また西郷や大久保、木戸など、幕末維新で政府に貢献した人々にも報いる必要がありますが、財源が徳川から没収した土地(=「県」 東京・京都・大阪の重要地は「府」)しかないのです。

限られた土地の年貢ですべて賄おうとすると、年貢を(重く)徴収する必要があり、「世直し」を期待した農民たちの怒りが、度重なる一揆となって荒れ狂います。

解決策は、全ての土地の年貢を新政府が徴収するという方法。

つまり、新政府に協力した大名たちの領地も没収すること。

没収というと聞こえが悪いし、大名が何か悪いことをしたみたいです。

そこで「版籍奉還」、つまり大名が支配していた領地と人民を、天皇に返還するという形式が選ばれました。

将軍慶喜は国の政治(大政)を奉還したのだから、次は大名たちが、既得権益を天皇に返上しましょうということですね。

あの藩に負けるな!藩主たちのプライドを利用?

この問題は幕末のころから長州藩や薩摩藩の一部藩士の間で議論され、明治になると、姫路藩主も版籍奉還についての建白書を出しています。

どうせやるなら、姫路藩に主導されるのは嫌だ!

幕末に活躍した薩摩・長州・土佐、そして最強兵器を提供した肥前藩主が主導した形にしたいと考えた大久保利通、広沢真臣、板垣退助らが4藩主に働きかけ、まず彼らから「版籍奉還を上表」させました。

彼らに負けるな!天子様に忠義を見せよう!との対抗心からか? 他のほとんどの藩主も奉還上表を次々に行いました。

藩主たちの勘違い?

この段階でまだ、「版籍奉還ブーム」に乗らなかった藩主も、少数いました。

しかし1869(明治2)年6月、版籍奉還が勅許され、つまり「天皇がお許しされた=やりなさい」という実質的な命令となって、すべての藩の版籍奉還が実現します。

ある意味すごいことです。

戦国時代には、あんなに狭い土地(例えば井伊谷など)を巡って殺し合いをしていたのに、えらくあっさり手放すもの。

と思っていたら、実は藩主たちも困っていて、版籍奉還に飛びついたという話を知りました。

徳川幕府が崩壊した今、誰に自分の領地の「本領安堵」をしてもらったらいいかわからない!と困っていたのです。

これはきっと天子様(天皇)が本領安堵してくれるのだ!と勘違いした大名が、案外多かったのかもしれません。

藩主たちが得たもの

この版籍奉還で、藩主は「知藩事(藩知事)」という地方官に任命され、天皇の家臣として元の「藩」を支配することとなりました。

「藩」の支配も、年貢徴収も江戸時代のままですが、最大の違いは、領主(誰からも給与をもらわず独立状態)から地方官(公務員=サラリーマン)になったこと。

大名は、徳川幕府に忠誠を尽くすことで、自分の領地支配権を保証してもらいました(本領安堵)が、徳川からは給与は受け取っていないのです。

彼らへの給与=家禄(かろく)は、藩の実収入の10分の1とされ、藩の内情も政府が強く監督しようとしていました。

最初に版籍奉還を上表した島津茂久は、このようなことをどこまで知って(知らされていた)のかな?

またどの程度、その変化を深刻にとらえていたのでしょうか。

父親の久光にすれば、いろいろと頭が痛い問題が次々出現する、明治の新時代でした。

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