先日、NHKで放映された『英雄たちの選択「土方歳三”明治”に死す 盟友・近藤勇の生死を握る決断」』の再放送を、偶然見る機会がありました。
新選組の副長・土方歳三さんが、箱館五稜郭戦争で戦死した命日(5月11日)にちなんで、最近再放送されたようでした(本放送は2017年12月7日)。
これまでは、不可能とも思える夢でも自分に制限をつけずに挑戦し、合理的思考を持ち、抜群の行動力を持つ土方さんの魅力について紹介しました。
今回は、近藤勇(下の銅像)への友情です。
流山で包囲された近藤勇と土方歳三
土方さんは鳥羽伏見での敗戦後は江戸に戻り、旧幕府軍の責任者・勝海舟の配下となりました。
そして近藤勇とともに、約200人の新選組隊士を率いて千葉県流山に布陣しました。
表向きは、この地の反乱を鎮めるというものでしたが、土方さんは新選組を洋式部隊として訓練するつもりだったようです。
しかし新政府軍の動きは早く、流山着陣の翌日、新撰組の本陣は多数の新政府軍に取り囲まれてしまいました。
この時、隊士たちは野外訓練に出ており、本陣には土方さんと近藤勇以外に数名しか残っていなかったそうです。
ここまで隊を率いてきた近藤は、観念し、切腹すると言い出します。
近藤とともに死を選ぶのか、あるいは、近藤の命を危険にさらしても、新政府と戦い続けるという一縷の望みに賭けるのか、土方さんは、信義と盟友の命を賭けた選択を迫られました。
近藤と天命を信じて、生き延びる道を探る
この時、土方が発した言葉が、新撰組隊士によって残されています。
「ここで割腹するは犬死になり。運を天に任せ、あくまで鎮撫隊を主張し、説破するこそ督促ならん。」
切腹をすることで近藤勇個人の名誉は守れるでしょうが、隊士たちが逃げ切れるかどうかわかりません(歴史学者の大石学さん曰く「近藤ファースト」)。
また、近藤と2人で大勢の新政府軍と戦うというのも、絶対勝ち目がないから、土方さんは選択しませんでした(磯田先生の作戦通りにやったら、或いは勝てたかも!)
土方さんが選んだのは、新政府軍はこちらが新選組だとまだ気づいていない点を利用し、近藤勇に「大久保大和」の偽名を貫かせ、出頭させて生き残る可能性に賭けたのです。
近藤勇が時間を稼いでいる間に、隊士たちも無事に逃げることができ、土方さんも裏でいろいろ工作することができるのです(「新選組ファースト」)
土方さんは急ぎ江戸に戻り、勝海舟に近藤勇の処遇を託した後、旧幕府軍に合流して宇都宮城を攻め、足を負傷して会津へ向かいました。
近藤勇の墓
会津で療養中の土方さんに、やがて悲報が届きます。
出頭した近藤勇の正体が露見し、罪人として斬首され、首が京都の三条河原にさらされたというのです。
新政府軍が幕府に「大久保大和」について問い合わせた時、幕府の恭順派は、「大久保大和という人物は、幕府にはいない」と言いました。
つまり、近藤勇や新選組は、幕府から捨てられたも同然。
会津藩と新政府軍が激しい戦闘を繰り広げていた時、近藤勇の遺髪などを持っていた土方さんは、会津の天寧寺裏山に、近藤の墓を建てました(詳しい情報はこちら)。
近藤の墓と肩を並べるように、土方さんの慰霊碑も建てられました。
土方さんは、近藤の最期を知って以降、常々こう口にしたと言います。
「近藤とともに死ななかったのは、ひとえに徳川家の冤を雪ぐためだ。万一赦されたら、何の面目をもって地下の近藤に見えんや。」
西南戦争の西郷隆盛と同様、戊辰戦争中の土方さんも(特に近藤勇の死を知って以来)、「死地を求める」というか「緩慢な自殺」を望んでいたように思えました。
『三国志』との共通点
土方さんには、沖田総司や井上源三郎ら試衛館道場のメンバーが、気心も知れる大切な仲間でした。
その中で特に近藤勇と土方さんとは、義兄弟の契りを交わしていたとか。
先日中国の成都(三国時代の蜀の都)に行ったばかりなので、「義兄弟」と聞くとすぐに『三国志』の「桃園の誓い」を思い出してしまいます。
『三国志』に登場する劉備・関羽・張飛の3人が義兄弟の契りを交わし、深い友情で結ばれ、相手のために戦ったように、土方さんと近藤勇も深い友情で結ばれていました。
少年の頃から共に剣の修行に励み、「新選組」という組織を作り、その運営を自分に委ねてくれた近藤局長に対する想いは、きっと特別だったことでしょう。
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