『西郷どん』ではついに、西郷どん(奄美大島では「菊池源吾」と名乗っていました)がとぅまと結婚しました。
ドラマでは、典型的な悪代官タイプの島役人がいたり、とぅまが代官所破りを決行するなどしていましたが、本当のところはどうだったのでしょうか。
昨年3月に奄美大島を訪れた時、タクシーの運転手さんからいただいたパンフレットなどをもとに紹介します。
西郷どんは砂糖船でやってきた
西郷隆盛は1859(安政6)年、1月12日、砂糖積船の福徳丸で、奄美大島の龍郷(たつごう)湾阿丹崎(あたんざき)湊に上陸しました。
上陸したとき船を係留した松は「西郷松」と呼ばれて親しまれていましたが、2011年「立ち枯れ」という判断で切り落とされてしまい、現在は三木の部分だけが残っています。
当時の阿丹崎湊には、黒糖積出港として、薩摩の島役人が詰めていた「番所」があり、黒糖の貯蔵庫があったこの地点の地名を「番屋」と呼んでいました。
西郷松の近所には、「番屋」という名の料理屋があり、今もその名を伝えているようですね。
前回も紹介しましたが、西郷隆盛は奄美大島に島流しになったのではなく、藩の命令で、幕府から身を隠すために奄美大島に移ったのです。
少ないですが、扶持米もありました。
上陸した西郷は、阿丹崎湊から北方約2㎞ほどの地点にある、龍郷(たつごう)集落内の美玉新行(鹿児島城下出身の流人)の空き家を借りて、自炊生活。
西郷は最初、島人たちを軽蔑して忌み嫌い、島人たちも言葉の通じない大男の西郷を怖がり、いつ乱暴されるかとびくびくしていました。
斉彬さま在世のころは国事に奔走していたのに、月照にも死に後れ、こんなところで何をしているんだ!と、西郷は焦燥感に駆られて日々を過ごしていたのです。
島人との融和
やがて奄美大島の実態を知った西郷は、島役人たちに対して、厳しい黒糖年貢の取り立て(「黒糖地獄」)の緩和を働きかけ、理不尽な拷問から島人たちを助けたりします。
子供たちに手習いを教え、扶持米を老人や病人に分け与える西郷の姿を見て、島人たちも「大和のフリムン」と彼を慕うようになります。
「フリムン」とは、愚か者という意味と、通常では考えられない行動をする人という意味があります(ここでは後者の意味)。
これまでの搾取ばかりする大和の人間とは大違いだった西郷に、親しみと安堵感を込めて「大和のフリムン」と呼んだのでしょう。
龍家の離れに転居
奄美大島上陸から2カ月後、龍郷集落から小山一つを隔てた小浜(こはま)の郷士格であった、龍家の離れに西郷は移りました。
当時は龍佐民(さみん)為行(ドラマでは柄本明さんが演じておられます)が、相続人として家を管理していました。
龍家は、奄美大島で初めて郷士格を藩主から仰せつかった、島一番の名家。
この龍家にはヤンチュ(家人)と呼ばれる債務奴隷が数十人いて、最初はヤンチュのコムルメが、西郷の身の回りの世話をしていました。
龍家では、西郷が島人たちを助けたことで、彼に対する尊敬や心服の念が高まっていました。
そこで西郷に不自由を感じさせないようにという心遣いで、於戸間金(おとぅまがね)という龍家一族の娘との結婚を勧めました。
島妻(アンゴ)の制度
西郷は、自分は島にいつまで滞在するかわからないという理由で、この縁談を遠慮していました。
しかし結局は龍家の親切を受け入れ、その年11月8日に、龍佐民夫婦の媒酌で島の習慣に従って「三献(さんこん)」の儀式で祝い、正式に結婚しました。
当時、鹿児島からの役人や流人は、妻子を郷中に残して単身赴任するのが決まりでした。
そして島の女性を「島妻(アンゴ)」とする場合もありました。
島妻は奄美滞在期間だけの婚姻関係であり、彼らが鹿児島へ帰ると消滅する制度でした。
島妻になるのはほとんどの場合未亡人で、結婚の祝いなどすることはありません。
しかし西郷は当時独身で(バツイチです)、於戸間金も初婚だったので、正式な結婚式を挙げることとなったのです。
時に西郷33歳、於戸間金は23歳でした。鹿児島市のK10カフェ店内に掲げてあった、彼女の写真です。
「愛加那」誕生
於戸間金は結婚を機に、「愛子(愛加那)」と改名。
加那は愛しい人への敬称でした。現代風に言えば「愛ちゃん」かな。
西郷の好んだ言葉として「敬天愛人」が良く知られていますが、於戸間金を「愛子(愛加那)」と命名したのは、ドラマのようにやはり西郷だったのでしょうか。
今回気付いたこと
奄美大島に上陸したときには言葉も通じず、月照に死に後れたショックも癒えず、とにかく荒んでいた西郷隆盛。
冷静沈着な「意志の人」というイメージのある大久保利通なら、多分ここまでひどくなっていなかったと思います。
西郷は感情が豊かな分、気分の浮き沈みが激しくて、なかなかそれを自分でコントロールできないタイプのようです。
もし、島人たちと心を通わせることができなかったら、再起不能だったはず。
あの斉彬さまも認めた「すごい人」西郷でさえ、どん底に落ち込んてしまった時には、誰かの助けが必要だったのでした。
以前、斉彬さまが生きていたころの西郷どんは「意識高い系」で傲慢なところもあったと書きました。
でも奄美大島で愛加那や島人たちに癒され、今まで知らなかった奄美大島の暮らしも知り、新たな人生を生きる決意をしたのでしょう。
挫折を乗り越え、ピンチをチャンスに変えることができた西郷どんを見習いたいです。
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