大河ドラマ『西郷どん』では、西郷隆盛が奄美大島を去っていきました。
実際の西郷隆盛と、家族や島人たちとの別れは、もっと劇的なものだったようです。
島での日々
「キモギョラサ」(心の清らかな人)と評判のとぅま(愛加那)との結婚後、西郷隆盛と島人たちとの関係はさらに深まりました。
彼は島人のためもあり、昼夜イノシシ狩りに励みましたが、島に埋もれて政治活動に参加できないことを嘆くこともあったようです。
奄美の代官は彼の生活の便宜を図り、鹿児島の実家からも生活必需品が届けられました。
また大久保利通の手紙によると、鹿児島の留守家族に藩主から下賜金が出たとのこと。
このような事実からも、奄美大島での西郷隆盛は「島流し」の「流人」生活ではなかったことがわかります。
1860(万延元)年には西郷家の家禄が12石に増加され、11月2日には愛加那との間に長男が誕生。
しかし島妻腹の男子は嫡子とは扱われず、菊池家の次男・「菊次郎」と命名されました。
別れの準備
ドラマのように大久保利通が島にやってくることはありませんでしたが、鹿児島の同志と奄美の西郷隆盛とは、頻繁に手紙のやり取りをしていました。
この年桜田門外で井伊直弼が暗殺され、幕府の独裁体制が大きく揺らぎます。
薩摩藩主の父(国父)となった島津久光は、公武合体政策を実現させるため、兄の斉彬が実現できなかった挙兵上京を計画します。
しかし鹿児島で育った無位無官の久光は京都での人脈に乏しく、久光に接近していた大久保らの進言で、奄美の西郷に召喚状を出しました。
事前に手紙でそのことを知った西郷は、鹿児島に連れ帰ることを禁じられている島妻の愛加那の生活が立ちゆくよう、田1反を購入し、家も新築することにしたのです。
新築祝いの後に
新しい家の場所として西郷が選んだのは、龍郷集落内の「白間」地区。
台風の影響が強くなさそうな場所を求め、地主に宅地の譲渡を申し出て、藩から与えられた扶持米である玄米3俵と酒2樽を渡して登記代としたと伝えられています。
西郷隆盛が家を新築すると知った島人たちは、家づくりを手伝いました。
1861(文久元)年11月20日、西郷一家はそれまで暮らしていた龍家の離れを出て、新居に移転。
2つの家の距離は、こんな感じです。徒歩10分で、割と近いですね。
新しい茅葺きの家には島人たちも集まり、皆でお祝いをしていました。
まさにその当日、藩からの召喚状を乗せた飛脚船が着いたのです。
翌年1月、34歳の隆盛を乗せた船は、鹿児島へと出航していきました。
約2年間の、愛加那との夫婦生活。
2人目の子を宿していた愛加那は、西郷が島にいる時だけの縁だと十分理解しており、夫の髪の手入れをするとき、櫛についた髪の毛を形見として大事に保管していました。
後にこの毛髪が鑑定された結果、西郷隆盛の血液型はB型だとされています。
南洲流謫跡見学の注意点
西郷が、愛加那や子供たちのために建てた家は、1910(明治43)年に龍家の一族である龍丑熊により再建されたものが「南洲流謫跡」として現存しています。
しかしここは、現在も龍家が所有しており、見学する場合は龍家に許可をいただく必要がありました。
現在も龍郷町のホームページによると、所有者の龍さまに連絡をして、事前に予約しておかないといけません(詳しくはこちらをご覧ください)。
私たちが訪れた2017年3月末、JTBから連絡はしてもらっていたのですが、龍さまが病院に行く必要が生じたので、見学することはできませんでした。
外から写真を撮ることはでき、勝海舟が碑文を書いた石碑などが見えました。
近くには愛加那のお墓も。こちらは誰でもいつでも見学可能です。
1902(明治35)年、2人の子供たちは鹿児島に引き取られて、1人でこの家と田を守っていた愛加那は、農作業中に脳溢血で倒れ、そのまま他界したと言われています。
島妻という制度がなければ、きっと西郷にどこまでもついていっただろうに。
本当に「キモギョラサ」(心の清らかな人)だったんだろうなと思いました。
今回の気付き
「禍福は糾える縄の如し」という言葉がありますが、まさに「喜びの新築祝い」から「別れの宣告」へと、愛加那の人生はジェットコースター並みの展開でした。
別れの準備として、家や田を夫が買い求めていたことを、彼女はどの程度知っていたのでしょうか。
彼の事だから、黙っていた可能性も大いにあります。
こういう場合、黙っていた方がいいのか、それとも事前に知らせておくべきなのか、悩ましいところですね。
皆さんが彼の立場なら、どちらを選択しますか?
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