大河ドラマで学び直せる日本史 薩摩と長州と会津(『西郷どん』第27話)

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『西郷どん』27話では、幕末の大事件「池田屋事件」や「禁門の変(蛤御門の変)」が取り上げられていました。

この事件については知名度も高く、ご存じの方も多いでしょう。

しかし、もう一つ大切な事件があったのです。

八月十八日の政変

それが、ドラマで簡単に説明された「八月十八日の政変」。

一部の過激な尊王攘夷の公家たちや、クーデタを画策していた長州藩勢力を、会津藩や薩摩藩が京都から追放した事件です。

その背景には、国政の主導権を巡る薩摩と長州の対立がありました。

長州は最初、開国論を唱えて公武周旋に乗り出しましたが、薩摩にその座を奪われると過激な攘夷方針に方向転換。

幕府に即時の攘夷実行を迫り、天皇を擁して武力による攘夷を指揮し、天下に号令しようとしたため、会津藩や薩摩藩に危険視され、1863(文久3)年8月18日(旧暦)に排除されてしまいます。

この時、西郷隆盛はまだ沖永良部島にいました。

穏健攘夷派や開国派にとっては、長州藩のやり方は危険極まりないものだったのです。

また孝明天皇は熱心な攘夷論者でしたが、暴走する急進派公家や長州を嫌悪し、攘夷戦争も好まず、将軍に対する大政委任を止めるつもりもありませんでした。

結局長州藩と過激な公家7名が、京都を去ることとなりました。

池田屋事件

この結果京都では、穏健な薩摩など公武合体派が政局の中心となりましたが、尊王攘夷派も勢力挽回を狙っていました。

1864(元治元)年になると、攘夷や横浜港の鎖港が(朝幕間で合意されたのに)実行されない情勢となり、各地の攘夷派の中から、長州藩の京都政局復帰を期待する声も上がってきました。

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2018年7月22日

一方、京都の治安を預かる京都守護職・松平容保(かたもり)やその傘下にあった新選組は、尊王攘夷派の動きを警戒して市内の警備や捜索を行っていました。

その新選組が、尊王攘夷派の古高俊太郎を捕縛し、拷問によってテロ計画を自白させ、尊王攘夷派の会合が旅籠(はたご)の池田屋か四国屋で行われることも察知。

池田屋の跡は有名で、同じ名前の居酒屋もあり、幕末ファンでにぎわっていますが、四国屋の跡はちょっとわかりにくい。

武市瑞山寓居跡が、四国屋の目印だそうです。

新選組の近藤勇局長ら数名が、池田屋に突入し、四国屋から池田屋に向かった土方隊も遅れて到着。激しい戦闘となりました。

長州藩の桂小五郎は難を逃れたものの、多くの尊王攘夷の志士たちが戦死し、尊王攘夷派は大打撃。

もちろん長州藩も、吉田松陰に愛された吉田稔麿(としまろ)、杉山松助などが殺害されました。

禁門の変

長州藩は、この事件をきっかけに強硬派が激怒。

事態打開のため京都に乗り込み、武力を背景に長州の無実を訴ようとする進発論が主流となり、長州は2,000の兵を率いて上京します。

そしてついに、来島又兵衛、久坂玄瑞(くさかげんずい)ら長州藩兵と、会津藩、福井藩、薩摩藩ら幕府軍が、京都御所周辺で激しい戦いを繰り広げました。

この結果、またもや長州は敗北し、「朝敵」の汚名まで着せられてしまうのです。

不運というか、戦略的な発想がなかったのか、はたまた学習能力がなかったのか、怒涛の3連敗とはさすがに気の毒すぎる気もします。

禁門の変(御所北西部方面)戦闘経過

ドラマでは、いきなり乞食が桂小五郎と名乗り、西郷隆盛や一橋慶喜と話し合ったりするシーンもありました。

まぁこれは、いくら何でもやりすぎ。フィクションだろうとすぐわかると思います。

でも、禁門の変の描写はちょっとわかりにくかった。

長州藩の来島隊と、薩摩藩がいきなり真正面から戦っているように見えてしまったのです。

実際の経過を紹介すると、会津・桑名藩と長州藩が、まず烏丸(からすま)通に面する蛤(はまぐり)御門で戦闘開始。

長州藩は筑前藩が守る中立売(なかだちゅうり)御門(蛤御門の1つ北)を突破し、京都御所に侵入します。

しかし、長州藩の側面を、援護に来た薩摩藩が攻撃します。

薩摩藩は、中立売御門の1つ北にある乾御門(地図には印はついていません)を守っていたので、すぐ駆けつけることができたのです。

薩摩藩の守っていた乾御門のすぐ北には、薩摩とゆかりの深い近衛家の邸宅もありました。ここを守るのは、薩摩藩にとっては自然の成り行きだったのでしょう。

戦い上手な薩摩藩

西郷隆盛は、禁門の変は会津藩と長州藩の私戦であるとし、慶喜の出兵命令も辞退して、御所警備に専念します。

しかし御所周辺で戦闘が始まると、政敵の長州藩を徹底攻撃。

先日お聞きした町田明広先生のお話によると、戦闘の指揮を執ったのは、薩摩藩家老の小松帯刀(たてわき)だったようですが、ドラマではやはり西郷どんでした。

「西郷隆盛とその時代 元治・慶応期を中心に」 (その2)

薩摩藩が禁門の変で勝利できた原因は、町田先生のお話では、薩摩藩兵がよく訓練されていたこと(あの郷中教育!)。

そして敵の側面を突いたり、目立つ大将(来島又兵衛)の狙撃を命じたりと、合理的な作戦で薩摩は勝利するのです。

薩摩藩は、とても戦上手な藩でした。

今回の気づき 薩摩と会津

最近、『西郷どん』を見ていると、無性に『八重の桜』を見たくなります。

薩摩藩と会津藩の関係を、もう少し確認してみたくなったのです。

厳しい訓練を藩士に課し、教育が行き届き、質素な生活ながら武士道を追い求めていた薩摩藩士と会津藩士は、とても似ているように思えます。

違っていたのは、薩摩藩の方が、銃の性能がよかったこと。山本覚馬(八重の兄)は、さぞ悔しかったことでしょう。

そして、政治的な立場が違っていたことも大きいです。

会津藩と薩摩藩はこの時は一緒に戦っていたけれど、すでに西郷隆盛や薩摩藩は、会津と距離を置いていました。

会津にすれば、薩摩には裏切られたという気持ちのはず。

結果的に戊辰戦争で敗者となってしまう会津藩は、今回のドラマでは、まだほとんど描かれていないようです。

多分、庄内藩が「敗者代表」となって、西郷どんを褒め称えることになるでしょうが、会津藩の立場・視点も必要だと思います。

せっかく明治維新150周年の記念ドラマなのですから、一橋慶喜とは比較にならないほど苦杯をなめた会津藩のことも、しっかり描いてほしいですね。

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