先月、クラブツーリズムの日帰りバスツアーで、兵庫県朝来(あさご)市にある神子畑(みこばた)選鉱場跡に行きました。
ここは今話題の、とても美しい廃墟だったのですが、調べてみると歴史もなかなか興味深いものでした。
五代友厚と神子畑鉱山
但馬国に位置する神子畑には、かつて銀と銅を算出する鉱山があり、戦国時代に栄えましたが、同じく但馬国にある生野銀山(兵庫県朝来市)の繁栄におされ、鉱石の出産量も不安定だったため一度休山していました。
そんな神子畑鉱山に目を付けたのが、NHK連続テレビ小説『あさが来た』で爆発的に知名度を向上させた、あの「五代さま」こと薩摩藩出身の五代友厚(才助)。
幕末のころから、五代は富国策として鉱山業を掲げ、長く放置された鉱山から、銀や銅などを採り出す製錬技術を海外から導入しました。
奈良県天川村の天和(てんな)鉱山で銅の採掘に成功し、多額の資金を手にした五代は、幕末から明治初期にかけて、神子畑鉱山でも鉱脈探しを指示していました。
ちなみに、この選鉱場施設の巨大なコンクリート構造物のある山は、加盛山と呼ばれていますが、これは五代が探鉱を命じた部下の加藤正矩(まさのり)にちなんで名づけられたのだとか。
『あさが来た』が放映中に地元の郷土史家が残した手記が発見され、この事実が明らかになったとのこと。
1878(明治11)年、明治政府が行った生野銀山の周辺調査に伴い、神子畑の鉱脈は再発見されました。
生野銀山と五代友厚
一方生野銀山も、江戸時代中期になると銀の産出量が減り、銅や錫(すず)の産出が増えていました。
幕末になると環境は悪化し、手当米を幕府が休止したため、全山休業状態にも陥りました。
明治新政府は廃棄も含めて生野銀山のあり方を考え、激しい議論の末、官営鉱山とすることに決定。
生野銀山は、日本で初めての官営鉱山となりました。ちなみに佐渡金山が官営となったのは、その半年後だそうです。
しかし休山同様に疲弊していた状況を回復するためには、先進国の技術が必要と政府は考えました。
この時注目されたのが、薩摩藩が1867(慶應3)年に招聘していたフランス人鉱山技師のジャン・フランシスク・コワニェ。
フランスの鉱山学校を卒業後、世界各地の鉱山を視察していた人物でした。
政府は薩摩藩と交渉し、コワニェを譲り受けるのですが、この時に活躍したのが、五代友厚だったのです。
コワニェのおかげで生野銀山は近代化され、鉱山学校も開設されて、国内有数の鉱山として復活することができました。
五代さまが骨折りしなければ、生野銀山の歴史も、また変わっていたかもしれませんね。生野銀山の恩人の1人かも。
今回の気づき ドラマ化でイメージアップ
昔は「五代友厚」といえば、まず最初に思い浮かぶのが、教科書にも登場する「北海道開拓使払い下げ事件」でした。
国の税金で建設された船舶、倉庫、農園、炭鉱、ビール・砂糖工場など、およそ1400万円の費用を投じたものを39万円(無利子30年賦)で払下げるというもの。
なんと97.3%引きのビッグセール!しかも無利子30年ローン!
1年間に1万少し払えばいいだけ! これは欲しい!絶対欲しい!
でもこれを払い下げられたのは、開拓使長官の黒田清隆と同じ薩摩藩出身の五代友厚が経営する、関西貿易商会でした。
まるで最近の某学園以上の「お友達優遇措置」に、当時のマスコミは大バッシング!
結局世論の反発もあり、払い下げは中止されますが、政府内部ではこの事件に関連して大隈重信が参議を罷免される「明治十四年の政変」が起きています。
この事件で「政治家と結びついた商人(政商)」という、どちらかといえば悪いイメージが強烈だった五代友厚ですが、大阪経済に果たした役割はとても大きいし、大阪だけでなく各地に足跡も残していたことがわかりました(長崎の小菅修船場など)。
今回の五代と神子畑鉱山との縁も、ドラマ化されていなければ、話題にもならなかったかもしれません。
あまりにも美化するのは問題ですが、ドラマ化をきっかけに、忘れられていた人物やその事績にも光が当たるのは、いいことだなと思いました。
コメントを残す