『空海 美しき王妃の謎』の舞台西安 楊貴妃を連れて逃げたかった?阿倍仲麻呂

スポンサーリンク



阿倍仲麻呂の祖父も有名人

映画『空海−KU-KAI− 美しき王妃の謎』には、阿倍仲麻呂も登場します。演じているのは「アベ」つながりと話題の阿部寛さん。

阿倍仲麻呂といえば言わずと知れた奈良時代の有名人ですが、彼の祖父も有名人で、阿倍比羅夫(あべのひらふ)といい、中大兄皇子の母・斉明天皇の時代に、日本海側を3年間かけて北上し、蝦夷を服属させたとされています。

今の北海道まで、180隻の水軍を率いて遠征したり、白村江の戦にも赴いたりと、日本を代表する軍人だったようです。

難関試験の科挙に合格!

その孫である阿倍仲麻呂は幼いころより学才があり、第9 次遣唐使に随行する留学生として、717年に唐に渡りました。

同じ年に等に入国した留学生には、吉備真備(きびのまきび)や僧侶の玄昉(げんぼう)がいました。

唐の学校で学び、難関試験の科挙(役人の採用試験)に合格した仲麻呂は、玄宗皇帝に仕えます。

李白や王維など名だたる詩人と親交があり、晁衡(ちょうこう)という中国名で知られた仲麻呂は、733年、16年ぶりに第10次遣唐使船が到着し、同期生の吉備真備や玄昉が帰国することになっても、唐に残留する道を選びました。

唐でのさらなる出世を目指すため、と言われていますが、楊貴妃の魅力のとりこになってしまったことも、十分あり得るかもしれません。

彼はその後も文官として順調に出世し、玄宗皇帝の高官となっていきました。

今は懐かし 高橋幸治さんの阿倍仲麻呂

この第10次遣唐使船に乗っていたのが、日本に戒律を伝えてくれる高僧を求めて唐を訪れた普照(ふしょう)と栄叡(ようえい)という2人の若い僧侶でした。

この2人を主役にした井上靖原作の『天平の甍(いらか)』(1980年映画化)で、田村高廣(たかひろ)さん演じる鑑真和上と並んで、抜群の存在感を示していたのが、高橋幸治さんが演じておられた阿倍仲麻呂でした。

長安の日本人コミュニティの世話役的存在で、主人公たちに何かと便宜を図ってくれた、とてもいい人。

実際、第10次遣唐使船が帰国する際に第2船が難破して漂着すると、彼らがまた帰国できるよう、仲麻呂は奔走しました。

もちろん楊貴妃への憧れなど、みじんも感じられませんでした。

高橋幸治さんといえば、この映画の翌年に、テレビの大型時代劇『関ケ原』で演じられた大谷刑部さんも忘れることができません。

関ケ原探訪記4 大谷刑部吉継の墓・関ケ原宿脇本陣跡・レストラン伊吹

2017年6月3日

高橋幸治さん、今はどうしておられるのでしょうか。お元気かな。

懐かしい友と再会 望郷の歌

752年、第12次遣唐使船(第11次遣唐使船は停止)が唐に到着。

遣唐副使の吉備真備は、かつて一緒に留学した同期生でした。

久々に懐かしい友人と再会した56歳の仲麻呂が、帰国を決意したというのもうなづけます。

彼も在唐35年になっており、十分出世も果たしました。

玄宗皇帝に帰国を願い出て許された仲麻呂は、遣唐大使藤原清河(きよかわ)の乗る第1船で帰国することになりました。

彼の若として有名な「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」は、753年、帰国する仲麻呂を送別する宴席において王維ら友人の前で日本語で詠ったとするのが通説だそうです。

遣唐使は遭難のリスクを回避するため、大使と副使は別の船になり、吉備真備は第2船、もう一人の副使である大伴古麻呂(おおとものこまろ)は、第2船に乗りました。

この大伴古麻呂は、唐が出国を禁じたため藤原清河に乗船を拒否された鑑真和上ら一行を、内密に自分の第2船に乗せました。

帰国断念

唐を出発した遣唐使船は、第1・第2・第3船が無事に琉球に到着。

第2・第3船は無事に日本に帰国することができました。

しかし仲麻呂や清河の乗る第1船は琉球出発後座礁、その後暴風雨で安南(ヴェトナム中部)に漂着しました。

ここで彼らは原住民に襲撃され、多くの乗員が命を落としたといいます。

このとき李白は彼が落命したという誤報を伝え聞き、「明月不歸沈碧海」の七言絶句「哭晁卿衡」を詠んで仲麻呂を悼んでいます。

しかし仲麻呂や清河は無事に逃げ延び、755年に長安に帰着できました。

この年安禄山が反乱を起こし、仲麻呂も玄宗皇帝や楊貴妃らとともに、長安を脱出したものと思われます。

759年には清河の身を案じた日本の朝廷から、今の朝鮮半島北部から満州・ロシア沿岸地方を支配していた渤海(ぼっかい)国を経由して迎えの使節(迎入唐使)が到来しました。

しかし唐は、行路が危険である事を理由に清河らの帰国を認めませんでした。

当時、清河も仲麻呂と同様に唐に仕えており、優れた人材を手放したくなかったのかもしれません。

彼らの心中が思いやられます。

仲麻呂の家族

その後帰国を断念した仲麻呂は、安南の総督を務めるなど、日本人官僚として大いに活躍し、770年に73歳で亡くなりました。

当時の日本人としてはかなりの長命だし、一般的に考えれば、彼は幸せだったと思えるのですが、実際のところはどうだったのでしょうか。

『続日本紀(しょくにほんぎ)』という歴史書によると、遺された仲麻呂の家族が貧しく、葬儀を十分に行えなかったため、日本国から遺族に絹と綿が贈られたという記述が残っているそうです。

唐で高官を歴任したはずなのに、なぜ遺族がそんなに貧しかったのでしょう?

「家族」の具体的な続柄や名前は記されていません。

ちなみに、彼と同様、唐で客死した藤原清河には中国人女性との間に「喜娘」という名の娘が生まれ、777年に唐を訪れた第16次遣唐使船で日本に帰国しています。

今回の気づき 阿倍仲麻呂のここがすごい!

・阿倍仲麻呂は有名な武人の孫でしたが。

・玄昉や吉備真備とともに唐に留学し、科挙に合格して玄宗皇帝に仕え、彼らが帰国しても残留して玄宗の側近であることを選びました。

・56歳で帰国が許されたときに「天の原」の和歌を詠みましたが、船が遭難して唐に戻り、唐の高官として生涯を終えました。

今注目されている「世界で活躍する日本人」の元祖であった阿倍仲麻呂ですが、努力と日本人仲間への気配りがあり、運の強い人でもあったのではないかと思えました。

スポンサーリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です