昨日、奈良大学教授・千田嘉博先生の講演会を聞く機会がありました。
千田先生のお話を聞くのは、以前『真田丸』のお話を、大阪明星(めいせい)中学校で伺って以来です(2回目)。
JTB旅行文化講演会という関係なのか、熊本城だけでなく日本や世界の様々な城が登場し、実際に行ってみたくなりました。
熊本城はどうしてできたのか?
今日の講演のテーマの1つがこれ。
でもこの問題を考えるためには、信長や秀吉の城についても知っておかねばならず、今回の先生のお話の前半部分は、信長と秀吉の城についてでした。
いきなり熊本城ではないのです。
帰宅後、以前読んだ『信長の城』を引っ張り出して、また読み返してみました。
小牧山城から安土城へ 信長の城はパワーアップ
信長といえば清州(須)城のイメージが強いのですが、尾張を統一し、桶狭間の戦いにも勝利したのちの1563年に築城した小牧山城(愛知県小牧市)は、新しい首都として建設されました。
この城で信長は、初めて本格的に石垣を使用しました。しかも信長の居所である中心部だけに使用し、権威を高めていました。
一方家来の屋敷は山麓にあり、連絡道として直線の大手道がつくられましたが、信長の居所である中心部に近づくと、途端に左右に屈曲を始めます。家臣の屋敷は無防備なのに、信長の居所だけを防衛しているのです。(今回紹介する画像はすべて、講演会の資料の図版です)
主君である信長と家臣との間を隔絶させる((横並びではない)、高い求心性を備えた城を、信長は求めていました。
「寒くて不便では?」と思われていた標高329mの稲葉山に築かれた岐阜城も、信長の許可を得た特別な人間でないと入れない!という特別な空間を敢えて演出したのかもしれないとのことでした。
そしてやはり信長の城といえば安土城! 私たちがイメージするお城の重要要素「天主(天守閣)」を初めて備えた城として知られています。内藤昌氏の復元イラストで見ると、ものすごい迫力!
信長は高層建築である天主に実際に住むことで、彼を頂点とする求心的な権力を、目に見える形で人々に示したのでしょう。
受け継がれるスタイル
信長の後継者となった秀吉は、信長の城のつくり方を継承していきます。
秀吉の築いた大坂城にも壮大な天守がつくられ(高層建築に住むのは不便なので、秀吉は天守には住みませんでした)、大手門の「桜門」も安土城の「黒金門」のスタイルを受け継いだ外枡形(そとますがた)です。
外枡形とは、城攻めの際に攻防の要所となる城門に、敵が真正面から大軍で押し寄せることができないよう、出入口(虎口 こぐち)の外側に、地続きの小さな方形空間を張り出させ、最前にもう1つの門を開いたものです。
信長や秀吉によって築かれた城は、それまでの中世の城とは大きく異なるものであり、「織豊系城郭」と呼ばれています。私たちが普通思い浮かべる「お城」のイメージは、この2人によって完成されたのです。
「やりすぎ」の部分もある熊本城
織豊系城郭のスタイルは、秀吉の家臣たちが各地で築城する際にも採用されました。
その1つが、加藤清正によって築かれた熊本城。「日本三名城」の1つに数えられています。
石垣づくりを得意とした加藤清正により、「清正流(せいしょうりゅう)」と呼ばれる石垣がつくられました。
この石垣は、最初の勾配は緩やかだけれど、上部になるにしたがって垂直に近くなる「武者返し」の多用で知られています。
でも千田先生は、石垣だけでなく、出入り口の巧みさや徹底さについても注目すべき点があると教えてくださいました。
なんと、竹の丸から本丸へ進むには、連続5回の外枡形を通らなければならないそうです。これにはびっくり!
千田先生も「やりすぎですね」と仰っていました・
しかもこれは、家康が築いた慶長期江戸城にも採用された、究極の要塞スタイル。
豊臣家に万一のことがあれば秀頼を秘かに匿い、徳川と一戦交えるのも辞さずという、清正の本心を表しているのでしょうか。
彼の本心はわかりませんが、千田先生によると、世界的に見ても、最も大規模かつ精密につくった複雑な出入り口だそうです。
これはやっぱり、実際に熊本城に足を運んで体感するのが一番理解できそうですね!
よみがえる熊本城
西南戦争で焼失し、復元・整備されたものの2016年4月の熊本地震で、熊本城はまたも大きな被害を受けました。
修理は20年計画で進められており、天守の再公開を最優先に、大天守・小天守の石垣を解体修理中だそうです。
私たちが目にすることのできない、修理中の現場写真も見せていただきました。
石垣の復元など、とても大変そうですが、修理でわかってきた新事実もあるそうです。例えば石垣は、最初は「重ね積み」していたのだとか。
現在の熊本城はまだ立ち入りが制限されていますが(詳しくは公式サイトをご覧ください)、早く美しい姿をまた見たいものです。
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