大政奉還では徳川の時代が続く?
大政奉還と王政復古。よく似た言葉でわかりにくい!紛らわしい!どう違うの?
と、時々質問されることがあります。
15代将軍徳川慶喜が、自ら政権を返上し、「平和的な政権交代」の功績者として引き続き勢力温存を図ったのが、前回描かれた「大政奉還」(政治の実権を天皇に返上)でした。
どうせ全国の政治なんかやったことのない、年若い(明治)天皇や朝廷の公家、薩摩・長州の藩士達に政治なんか出来るわけがない。すぐに音を上げて、こちらに加勢を頼みに来ると、慶喜は考えていたのです。ある意味、常識的な発想ですね。
おかげで「討幕の密勅」を偽造(と言われています)した、岩倉具視や薩摩藩の面目は丸つぶれ。討幕の大義名分は失われてしまいました。
朝廷も新体制が整うまでは、幕府に引き続き日本を統治することを委任しています。
しかしどうしても、討幕派の岩倉具視や薩摩藩は慶喜を外したかった。
そこで考えられたのが、朝廷内の中心である親徳川派を排除して討幕派が朝廷を牛耳ろうというクーデターで、これが「王政復古」と呼ばれています。
ちなみに、王政復古前の最後の朝議では、長州藩主父子の官位復旧と入京の許可、岩倉具視ら処罰された公家の蟄居赦免と還俗、長州藩と共に追放された三条実美ら五卿の赦免が決定しました。
岩倉具視は、かなり長く参内できなかったようですね。知りませんでした。
孝明天皇崩御の前後から、ずっとそばにいたのだと思っていました(恥)。
共有されなかったビジョン
何か行動を起こすときには、「どのような姿になりたいか」という将来像(ビジョン)を描く必要があるとよく言われます。
ところが王政復古のクーデターの場合、決行前夜の1868年12月8日、岩倉具視邸に集められ、協力を要請された薩摩・土佐・安芸・越前・尾張各藩の重臣達のビジョンは、ばらばらでした。
あくまでも徳川を排除したい薩摩藩に対して、徳川が諸大名の一員となり、諸大名と共に合議する体制を、越前藩や尾張藩は望みます。徳川一門の大名(親藩)とすれば、当然の発想でしょう。
小御所会議がもめたのは、これが原因ではないでしょうか。
ともあれ1868年12月9日、5藩の兵士達が御所の門を封鎖し、御所内への立ち入りを厳しく制限。親徳川派の公家達を、御所内から閉め出してしまいます。
そして赦免されたばかりの岩倉具視らが参内して「王政復古の大号令」を発し、新体制の樹立を決定。新たに置かれる三職の人事を定めました。
大政奉還で慶喜が申し出た征夷大将軍の辞職を許し、京都守護職や京都所司代を廃止。幕府や摂政・関白も廃止。
一会桑体制(一橋・会津・桑名藩)は、ここで完全に否定されました。
古代のように、天皇が自分で政治を行う「天皇親政」の形式。これが「王政復古」です。
薩摩御用盗の存在をもっと描こう
その気になればいくらでも平和的に政権交代が出来るのに、徳川慶喜の才能を怖れ、必要以上に彼を攻撃したのではないかという説もあるこの時期の西郷隆盛。
小御所会議でのすごみのあるセリフは、西郷隆盛らしくないと感じた人もいるでしょう。
でも彼は、元々根っからの武士(つまり軍人)。戦うためには手段を選びません。
だからこそ、島津斉彬さまの「庭方役」に抜擢されたのでは?と思います。
ダークな西郷隆盛こそ真の西郷隆盛。そしてそれを最もよく表現するのが、徳川慶喜のいない江戸を恐怖に陥れた「薩摩御用盗」。
これをもっとしっかり描けば、薩摩藩や西郷隆盛に対する認識も変わるのに。
と言うか、「誰も知らない西郷隆盛を描く」のではなかったのかな?
この様子では、西郷どんは昔から伝えられていたように優しい人で、徳川慶喜が悪いから、仕方なく戦争をしたのだと誤解されかねません。
慶喜を売国奴扱いにしなくても、彼の政治力のすごさを素直に認めて、権力争いとしての戊辰戦争にした方がすっきりしていていいのでは?と思いました。
コメントを残す