2018年8月11日(土)、イルクーツクを1日歩いて観光しました。
シベリアに配流された青年貴族たち
シベリアというと、「シベリア送り」という言葉が思い浮かびます。
極寒の地であるシベリアは、ロシア帝国の時から流刑地であり、ソ連成立後も強制収容所や捕虜収容所が建設されました。旧日本兵のシベリア抑留も、忘れてはならない歴史。
そんな流刑地・シベリアに、100人以上の青年貴族将校たちが流されたことがありました。
1825年12月に起きたデカブリストの乱の関係者たちです。
イルクーツクで、2人の貴族将校の家を訪ねることができました。
デカブリストの乱とは
フランス革命やナポレオンの台頭は、ロシアにも自由主義の台頭をもたらしました。
ナポレオン失脚後、パリに進軍したロシア軍の将校たちは、ロシアがフランスに比べ、数段遅れているのに愕然とします。
1825年12月、青年貴族将校たちは、皇帝の専制政治や農奴制の廃止を掲げ、新しい皇帝ニコライ1世への宣誓を拒否してサンクトペテルブルグで武装蜂起しました。
武装蜂起が12月だったので、彼らは12月党員(デカブリスト)と呼ばれました。
しかし乱は1日で鎮圧され、5人の首謀者は処刑。他のメンバーたちは極東やシベリア、カザフなどに流刑を宣告されたのです。
トルベツコイの家
Baikal Love Cafeで昼食をとった私たちが、次に訪れたのは、デカブリストの1人、トルベツコイ公爵の家です。ここは入場料(200ルーブル)に加え、カメラ料金100ルーブルも請求されてしまいました。
日本ではまだ旧暦お盆の時期なのに、もうコスモスが満開でした。
トルベツコイ公爵とはこの方。彼の妻も、貴族の特権を捨てて夫を追い、シベリアへ向かいました。夫婦愛には頭が下がります。
この鎖が、政治犯の立場を物語っています。
現在は「デカブリストの家博物館」となっていて、1926年から1956年にかけての、デカブリストの東シベリア流刑に関連した資料が展示されていました。
でも、政治犯の流刑生活と言っても、あの大河ドラマ『西郷どん』の沖永良部島での流刑生活とは大違い!西郷隆盛は死にかけたのですが、青年貴族たちはそこまで過酷ではなかったのでは?
ピアノやヴァイオリン、豪華な家具などが持ち込まれていました。
イルクーツクには1854年~1856年まで滞在。
デカブリストの中には、シベリアで教育や研究に励んだ人もいるようです。
いくら貴族の特権をはく奪された政治犯とはいえ、当時のイルクーツクでは、とても優雅な生活が送れたことでしょう。
なお、トルベツコイ公爵は、1856年に恩赦でモスクワに帰還し、2年後亡くなりました。
ヴォルコンスキーの家
トルベツコイの家も、次に訪れたヴォルコンスキーの家も、なかなかすんなりとはたどり着けず、道に迷ってばかりでした。
ヴォルコンスキー公爵も、デカブリストの1人。
彼は30年にわたるシベリア流刑生活のうち、17年(1838年~1856年)をこの地で過ごしました。
この家も「デカブリストの家博物館」として、彼らの歴史を展示しています。
この家も、トルベツコイの家以上に、家具や調度品などが豪華でした。
本当に政治犯の配流先だったのかな?と思いたくなります。
トルベツコイ公爵の場合同様、ヴォルコンスキー公爵の妻も貴族の特権を捨ててシベリア入りし、30年間流刑生活を共にしました。
彼女のような「デカブリストの妻たち」は、ロシア史では、夫のために危険を顧みない、自己犠牲の心を持った女性として、象徴的な存在になっているそうです。
彼らの暮らしが、イルクーツクに豊かな文化や芸術をもたらしたそうですが、このような家財道具などを、イルクーツクに運ぶことを許可されたというのがまずびっくり。
ヴォルコンスキー家関係者が作った手工業品の展示もありました。
夫人は冬の庭園で、パイナップルを栽培していたそうです。
ヴォルコンスキー公爵は、1860年に恩赦でモスクワに帰還し、5年後にモスクワで死亡しました。
今回の感想
今回2人のデカプリストの家を見学しましたが、どれも「政治犯の流刑地」というイメージからは、程遠いものでした。
むしろ彼らの家は、イルクーツクで最も文化的な生活水準を送れる家として、地元の人々の憧れの的となったのでは、と感じました。
薩摩藩が、西郷隆盛ら政治犯の藩士たちに、沖永良部島など離島の教育を半分任せていたように、ロシア帝国にもそのような隠れた意図があり、彼らにシベリアでの教育を託したのでしょうか。
もし、デカプリストたちのイルクーツクでの生活が(寒さは仕方ないとして)、それ以外の点でも、政治犯故とてもつらいものだったというなら、一体モスクワでは、どんな恵まれた贅沢三昧をしていたのか、じっくり聞いてみたいなという気もしました。
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