西郷隆盛の命の恩人 沖永良部島の島役人・土持政照

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NHK大河ドラマ『西郷どん』に登場した、沖永良部島(おきのえらぶじま)の島役人・土持政照(つちもちまさてる)は1834(天保5)年生まれの薩摩藩士。

実在の人物で、彼の人生もなかなかドラマチックでした。

島役人になったいきさつ

土持政照の父・綱政は、島役人として沖永良部島にたびたび赴任しました。

綱政は沖永良部島で、鶴という女性を島妻にし、2人の間に生まれたのが政照でした。

政照は父に連れられて鹿児島に渡り、教育を受けました。

薩摩藩の制度では、島妻は鹿児島に連れて帰れなかったけれど、島妻との間に生まれた子供は武士の身分を与えられ、鹿児島で教育を受けることもできたのだとか。

島の人々からすると、島妻は「現地妻」「妾」扱いですが、生まれた子供はエリートになるのだから、まんざら悪い話でもなかったのです。

しかし政照は父の本妻が嫡子を生んだため、島役人として沖永良部島へ戻されました。

もし本妻に子供が生まれなかったら、彼は生涯、薩摩藩士として鹿児島で暮らしていたのかもしれません。

島に戻った政照の任務は、間切横目(まぎりよこめ)。

代官の下で、村の治安維持を担当するのが仕事でした。今の警察官のようなものです。

西郷隆盛との出会い

1862年8月、西郷隆盛が沖永良部島に到着しました。

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この島は、薩摩藩統治時代には、主に政治犯の流刑地。

西郷より少し前にこの島に流された川口雪篷(せっぽう)も、薩摩藩士の書家で陽明学者という知識人ですが、訳ありの流罪人でした。

沖永良部島で西郷と出会う謎の書家 川口雪篷とナポレオン

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川口と西郷は一目で意気投合したと言われますが、政照も西郷の上陸直後から、その礼儀正しさに心を打たれたといいます。

瀕死の西郷を助けた命の恩人

西郷の牢は、僅か2坪の吹きさらしの格子牢。

暑い南国の日差しや風雨が直接牢に入り、波しぶきや砂もまともに牢に吹き付け、昼は金蝿、夜は蚊に襲われる生活でした。

西郷は毎日座禅を組み、思索にふける毎日を過ごしましたが、次第にやせ細って体力も限界となり、風土病にもかかりました。

政照は西郷の身を案じ、代官の許可を得て、自費で座敷牢を作ります。

西郷を「囲いに入れろ」とあった藩の命令書を「囲いがあれば家の中でもいいだろう」と解釈し、座敷牢に移したと言います。

瀕死の西郷を献身的に看病したのが、政照の母と妻。

妻・マツの父親は大久保利世(大久保利通の父)で、彼女は大久保利通の異母妹でした。

大久保利世が沖永良部島に赴任した時、筆という女性を島妻にし、マツとタケという2人の娘が生まれたそうです。

『トイレの神様』の歌で知られる植村花菜さんは、このタケの子孫だとか。

「植村花菜のルーツは大久保利通!祖母の故郷で知る」スポニチ(2011年3月10日)

西郷隆盛の「再生」を支える

西郷は政照の親切に感激し、彼と義兄弟の契りを交わしました(西郷が兄)。

政照の配慮で、西郷は座敷牢を開いて島民たちに学問を教えることができました。

川口雪篷を西郷に引き合わせたのも、政照だったと言われています。

こうして西郷は、島で新たな生きがいを見つけ、自分のこれまでの生き方を顧みる機会も持つことができました。

沖永良部島に流された辛い経験を、プラスに変えていく力は素晴らしいです。

沖永良部島のために

西郷は政照に頼まれて、役人や横目役の心得を書きました。

6歳年下の政照ですが、将来沖永良部島を背負う人物になると考えたのでしょう。

また台風や干ばつ、飢饉の起こりやすいこの島のために、豊作の時に穀物を蓄えて、飢饉の時にそれを配分するという「社倉趣意書」も政照に与えました。

後に与人(島役人)となった政照は、1870(明治3)年に島民たちと共に沖永良部社倉を設立。

日本初の共済組合として、飢饉の年だけでなく、病院の資金や学資の補助などに活用されました。

政照は1902(明治35)年に69歳で亡くなりましたが、息子は和泊村の初代村長になりました。

今回の気づき

西郷隆盛が沖永良部島に滞在したのは、僅か1年6カ月ほどでした。

彼が去った後、西郷の精神を島に根付かせたのが、土持政照だったのです。

西郷が渡した役人の心得や「社倉趣意書」も、ただ単にそれを持っていて、それを読んだだけでは、状況は何も変わらなかったでしょう。

それを実行に移したというのが、土持政照の素晴らしいところだなと思いました。

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