大河ドラマ『西郷どん』も、いよいよ大詰めです。
残りの回数を考えると、征韓論と遣韓論の違い、征韓論争と大久保さんとの対立、川路大警視と警官たち、田原坂の激闘や熊本城焼失など、どこまで丁寧に描いてくれるか、とても心配です。
今回も、東京へ行って廃藩置県を断行するのだと思っていました。
磯田先生、他にする仕事が・・
冒頭、どこかで見たような人が登場してびっくりしました。
初代京都市長の内貴甚三郎(ないき・じんざぶろう)役で、時代考証担当の、磯田道史先生が出演されていたのです。
まぁ三谷幸喜さんも大河ドラマに登場したことがあるし、それは別にいいのです。
でも、庄内藩のエピソードがすべてカットされていたり、小松帯刀や島津久光の描写も新しい史料による反映ができているのかな?と感じられるシーンがあったりすると、ちょっと時代考証はどうなっているのかな?と心配になるのです。
『素顔の西郷隆盛』を上梓されているので、西郷の感情の波の激しさやマイペースぶり、従道ら弟たちの複雑な気持ちなど、よくご存じだと思っているのですが、どうもそういう描写は、大河ドラマでは描かれていないなと思いました。
武村の西郷一家
1869(明治2)年2月、藩主・島津忠義が自ら日当山温泉を訪れ、西郷の藩政への参加を求めたため、翌日藩主と共に鹿児島に戻って薩摩藩参政に就任しました。
弟である吉二郎の戦死などで、本当なら西郷は、少し鬱っぽく、無気力だったのでは?
あまり政界復帰は気乗りしなかったかもしれませんが、藩主直々の仰せなので、仕方ありません。
この頃小松帯刀は、版籍奉還の申し出を催促し、島津久光を説得して自分の領地を率先して返上するなど範を示しますが、1870年、数え年36歳の若さで病没してしまいます。
小松さんの死は、ドラマで紹介されるかな?
26歳の西郷従道さんは、洋行帰りの後に清子さんと結婚しましたが、東京勤務のため単身赴任。
この頃西郷家は、上之園の借家から、城下近郊の武村(たけむら)にある690坪の屋敷に移っていました。
武村の家には、41歳の西郷隆盛、26歳の糸子、3歳の寅太郎、8歳の菊次郎の他、戊辰戦争で戦死した吉二郎の後妻・園と先妻との間の2人の子、従道の妻清子、食客の川口雪蓬と数人の使用人が同居していました。
末弟の小兵衛は、京都に留学中だったそうです。
幼馴染でも知らなかった、西郷どんの本名
戊辰戦争の功績を認められた西郷は、1869年、正三位に任ぜられることとなりました。
官位を授けられる際には、通称名「西郷吉之助」ではなく、諱(いみな)と呼ばれた本名を、政府の書類に記す必要がありました。
ところが西郷の諱を、誰も知らなかったらしいのです。
諱は親、主君、師以外の人間が口にすることは失礼とされていました。
政府から尋ねられた西郷の幼馴染・吉井友実もなかなか思い出せず、ようやく「隆盛」だと報告し、書類が作成されました。
しかし「隆盛」は西郷の父・吉兵衛の諱であり、西郷の諱は「隆永(たかなが)」だったのです。
鹿児島で誤りを知った西郷ですが、自分が「違う」と言えば、書類作成にかかわった吉井以下多くの人たちが、困った立場になるだろう。それなら自分が改名すれば済むことだとして、これ以後「隆盛」となりました。
西郷隆盛の弟・信吾についても、似たような事態が起こります。
太政官で諱を登録した際、隆興(りゅうこう)と口頭で名乗ったところ、訛っていたのか、役人が「じゅうどう」と聞き間違え、「従道」と記されてしまいました。
しかし本人も、この誤りを指摘せず、「西郷従道」で通しました。
名前をあまり気にしないのか(「命もいらず名もいらず」という有名な言葉がありますが)、それとも周囲への気遣いなのか。
西郷家の兄弟が似ているのか、それとも信吾くんが、兄の西郷どんを見習おうと必死で努力しているのか。
そういうシーンも、ドラマで見てみたかったです。
西郷どん上京の背景
ドラマでも描かれていましたが、1870(明治3)年7月、鹿児島藩士の横山安武が、時勢を非難する諫言書を、太政官正院の門に投じて自刃しました。
横山安武は、のちに初代文部大臣となる、森有礼(もり・ありのり)の兄。
これに衝撃を受けた西郷は、役人の腐敗で明治政府から人心が離れていると感じ、薩摩出身の心ある人物だけでも、鹿児島に戻そうとしたそうです。
危機感を抱いた新政府は、弟の従道を10月に、勅使の岩倉具視、副使の大久保利通らを12月に、鹿児島の西郷のもとへ派遣。
身分の高い人々が直々に訪ねてくると、感激するのかついつい要求を聞いてしまう西郷の弱点を利用した、岩倉&大久保さんの作戦だったのでしょうか。
翌年西郷は、10歳の菊次郎を連れて上京します。この辺りは次回かな。
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