大河ドラマで学び直せる日本史 鹿児島の西郷どんと士族たちの反乱(『西郷どん』第44話)

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大河ドラマもまもなく最終回。あと4回で最終回です。

ドラマでは「さらば東京」と「西郷立つ」の間に、この回「士族たちの反乱」がありますが、1873(明治6)年から1877(明治10)年まで、かなり長い時期がありました。

西郷隆盛 鹿児島での生活

鹿児島・武(たけ)村の西郷家では、1873(明治6)年10月に三男の酉三(ゆうぞう)が誕生し、妻糸子の父も8月に死去していたので、1873(明治6)年11月の西郷の帰郷は、糸子にはありがたかったようです。

末弟の小兵衛(25歳)も帰郷しました。

帰郷した隆盛は、その後は政治的な事柄には関わらず、一切の俗事を離れ、畑を耕したり、山で犬を連れて狩猟をしたり川で釣りをしたりと、農夫のような隠遁生活を送っていたようです。

頼まれればよく書を贈っていたようで、その時のものでしょうか、鹿児島の城山観光ホテル(2018年にSHIROYAMA HOTEL kagoshimaに名称変更)1階・城山ガーデンズ水廉には、西郷隆盛の書が飾られていました(「除夜」という漢詩)。

『西郷どん』ゆかりの地を訪ねて 桜島の絶景が望める城山観光ホテルが屋号変更で再出発 

2018.12.16

江藤新平は、西郷家には来なかった!

しかし1874(明治7)年3月、鰻(うなぎ)温泉(指宿市)で湯治中、2月に佐賀の乱を起こし敗走していた江藤新平が、彼を訪れました。

政府軍に敗北した江藤は、薩摩士族の旗揚げを請いますが、隆盛に大声で叱られてしまいます。

江藤はその後、高知で武装蜂起を説きますが、捕縛されて梟首(きょうしゅ=さらし首)となりました。

司馬遼太郎さんの『翔ぶが如く4巻』では、西郷隆盛の肥前の人間に対する感情や、大久保利通の気持ちなども丁寧に描かれており、また肥前と長州の派閥対立など、江藤新平を巡る動きも詳しく描かれていたのですが。

この直後に起きた台湾出兵も、鹿児島にかかわる大事件なのに、見事にカットされました。

この2月、政府は台湾出兵を決定し、台湾征討軍の都督(司令官)となった弟の従道の要請を受け、隆盛はやむなく鹿児島士族から兵を徴募し、800人を長崎に送ったのです。

琉球は中国ではなく日本の領土だ!ということをアピールするのが最大の目的でしたが、不平士族のガス抜き対策も兼ねていたようです。

この件に反対して、木戸孝允が政府を辞めるという、かなり大変な事件だったのに。

私学校設立

西郷の帰郷に続き、薩摩系の官僚や軍人たちも続々と帰郷したため、鹿児島城下は無職の血気盛んな壮年者で溢れ、若者もそれに大いに影響されていました。

確かにドラマのように、むやみに銃をぶっ放されると非常に危険!

彼らを指導し統御しなければ方向を誤るという考えから、有志者が隆盛にはかり、県令・大山綱良(つなよし)の協力を得て、同年6月に私学校が設立されます。

私学校は篠原国幹(くにもと)が監督する銃隊学校、村田新八が監督する砲隊学校、村田が監督を兼任した幼年学校(章典禄の寄付で設立)があり、県下の各郷ごとに分校が設けられました。

この他、1875(明治8)年4月には隆盛と大山県令との交渉で確保した吉野村(鹿児島市)の荒蕪地に、桐野利秋が指導し、永山休二らが監督する吉野開墾社が創立されます。

元陸軍教導団(下士官養成学校)の生徒約200人を収容するための全寮制農業学校で、隆盛はここで自ら鍬を持って開墾作業をし、アメリカ留学を終えて帰国した14歳の菊次郎も参加しました。

士族たちのエネルギーを、北海道の屯田兵のように、シラス台地開墾といざという時の対外戦争(ロシアが仮想敵)に向けて蓄えるため、西郷はこのような教育機関を作ったと言われています。

菊次郎は、本来もう少し長く留学するはずだったのですが、新政府の財政が悪化したこともあり、英語もあまり上手にならないまま、帰国したようです。

鹿児島市には、今も私学校の石塀が残されていました。

あちこちに丸い穴が開いているのは、西南戦争の時の銃弾の跡で、激戦の様子を今も伝えています。

鹿児島士族のエリート意識

私学校では主に漢文の素読と軍事教練が行われたのですが、設立の真の目的は、不平士族の暴発を防ぐ事にあったのです。

そのため入学できるのは士族、それも元城下士出身者に限られました。

郷士への差別意識がありますね。

これをしっかり描けば、近衛兵と警官の微妙な関係という、同じ薩摩出身の士族でも、決して一枚岩になれなかった事情がよく分かったのにと思います。

士族の反乱 西郷の反応

西郷はこの頃、血気盛んな若者たちとはやや距離を置き、各地の温泉に逗留し、狩猟を続けました。

自分と話すことで、若者たちが暴発することを予防したかったのかも知れません。

1876(明治9)年3月に廃刀令、8月に金禄公債証書条例が制定されると、特権を奪われた士族はますます憤慨。

その年10月に神風連の乱(熊本)、秋月の乱(福岡)、萩の乱(山口)が起きています。

西郷は日当山(ひなたやま)温泉でそれを聞き、「愉快な報を得た」「起つと決する時期を待っている」との書簡を出しました。

この「決起」が何を指しているかは、明らかではありません。

士族の反乱の状況次第では、彼も立ち上がろうと考えていたのでしょうか。

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