熊本城は簡単に攻略できる?
1877(明治10)年2月15日、「政府に尋問の筋これあり」として、薩摩軍一番大隊が、鹿児島から東京を目指し出発します。
17日には、西郷も鹿児島を出発。
一方東京では、19日に鹿児島逆徒征討の詔が発令され、正式に薩摩軍への出兵が決定されました。
陸路東上を目指す薩摩軍は、20日に熊本に到着します。
熊本城の参謀長は薩摩藩出身の樺山資紀(かばやますけのり)であり、薩摩軍1万4千人に対し、僅か熊本城の鎮台軍は4千人。
西郷の名前を出せば、薩摩藩士だった樺山は薩摩軍に寝返るだろうし、百姓町人の集まりである鎮台兵など、恐るるに足らず。
熊本鎮台司令長官の谷干城(たにたてき)も、陸軍大将の西郷を擁する薩摩軍の要求を入れ、彼らの通行を許すだろうと考えました。
西南戦争で熊本城攻撃を指揮した桐野利秋は、「百姓兵の熊本城など青竹一本で足りる」と豪語したと言われています。
しかし予想に反し、薩摩軍は、熊本鎮台の攻撃を受けます。
加藤清正に負けた
22日に薩摩軍は、熊本城を包囲して総攻撃を開始。
西郷軍の攻撃直前、熊本城の天守(と30日分のコメ、数千件の城下町の民家)は不審火で焼失しました。

熊本鎮台司令長官の谷干城が、焼き払ったといわれています(上の写真は、熊本市田原坂西南戦争資料館の展示写真です)。
熊本城は石垣だけで、戦い抜くことになりました。
しかし薩摩軍の攻撃はことごとく失敗し、城を陥落させることはできませんでした。
薩摩軍は、少ない大砲と装備の劣った小銃しか持たないにもかかわらず、堅城に籠り優勢な大砲・小銃と豊富な弾薬を有する鎮台を攻めるという、無謀この上ない作戦を採用したのです。
薩摩軍と政府軍の間には、田原坂の戦いを含む激しい攻防が行われましたが、政府軍はよく耐え、ついに撃退に成功しました。
熊本城攻めに敗れた西郷隆盛は、「官軍に負けたのではない、清正公に負けたのだ」とつぶやいたと言われています。
西郷小兵衛の死と田原坂の戦い
熊本周辺では、政府軍の乃木希典(のぎまれすけ)が連帯旗を奪われる失態もありました。
乃木さんは、戦いではつくづく運がないのかも。

27日には、高瀬(玉名市)で西郷の末弟・小兵衛が戦死しています(享年29歳)。上は彼のお墓です(熊本県玉名市)。
3月1日から、田原坂(たばるざか)・吉次(きちじ)峠で激闘が繰り広げられました。
田原坂は尾根伝いにくねった切通しの坂道で、防御に適した地形。

博多から熊本をつなぐ道で、大砲を引いて通れるだけの道幅があるのは、この田原坂の道だけだったようです。
春先で冷え込みがひどく、雨が降りしきる厳しい状況の中で戦いは始まり、4日に薩摩軍の篠原国幹(くにもと)が戦死。
政府軍は、薩摩軍の抜刀白兵戦に手も足も出ませんでしたが、剣術に秀でた警察官を選抜した抜刀隊で対処しました。
警視庁抜刀隊には、あの有名人も!
徴兵令の主唱者である山県有朋(やまがたありとも)陸軍中将にしてみれば、抜刀隊結成は、鎮台兵の弱点を認めるようなものでした。
この抜刀隊には、戊辰戦争で賊軍とされた会津出身者が多かったとされていますが(犬養毅の報道記事による)、実際には薩摩郷士出身の警官が多かったと言われています。
会津藩家老・佐川官兵衛さんの他、元新選組三番隊組長・藤田五郎こと斎藤一さんが従軍したことはよく知られていますが、他にも面白い人たちが、抜刀隊に参加していたようです。
土方さんや斎藤さんと並ぶ新選組の人気スター・沖田総司の甥(沖田芳次郎巡査)。
『武士道』の著者で、国際連盟事務次長も務めた新渡戸稲造(にとべいなぞう)の兄(新渡戸七郎警部心得)。
女性作家・樋口一葉の父(警視局雇樋口則義)や、来年の大河ドラマ『いだてん』にも登場する落語家・古今亭志ん生(ここんていしんしょう)の父(美濃部戌行巡査)や、連合艦隊司令長官・山本五十六(いそろく)の兄(高野譲警部補)もいて、びっくり!
いかに多くの人たちが動員されたかが、よくわかりました。
民に慕われているわけじゃなかった 薩摩軍の実態
薩摩軍の旧式銃は雨では使用できず、遂に20日、田原坂を奪われた薩摩軍は南下して、椎葉村(宮崎県)から人吉(熊本)、宮崎、延岡へと敗走しました。
大河ドラマでは、敗走先の農民たちにも慕われている西郷どんが描かれていますが、実際は、薩摩軍は彼らにとって、「招かれざる客」でした。
「従わねば殺す」と言い、無理に動員し、食料を強奪したり。婦女暴行やら放火やら、農作業妨害もやっているようです。
「西郷札(さいごうさつ)」という、疑似紙幣も薩摩軍は発行しています。
要するに、薩摩軍が慕われて、政府軍だけが憎まれているというわけではなかったのです。
糸さんとの対面(史実ではありません)ではなく、戦争の真実をもっと描いてほしいなと思いました。
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