『いだてん』に登場する嘉納治五郎の前半生 講道館柔道の創始者は、神戸の酒造家一族出身! 

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『いだてん』にも登場! 嘉納治五郎とは

大河ドラマ『いだてん』のテーマはオリンピックです。

古代ギリシアで行われていたオリンピックを、「近代オリンピック」として蘇らせたのがフランス人のクーベルタン男爵。

最初のオリンピックは大変だった! クーベルタンの理想と苦悩

2018年7月26日

そしてそのクーベルタン男爵とオリンピックの理念を共有するのが、日本初のIOC委員となった嘉納治五郎です。

それまでの柔術諸派を組み合わせ、西洋式の教育理論も取り入れて新たに「講道館柔道」を創設したのが嘉納治五郎。

かの『YAWARA!』に登場するヒロインの祖父・猪熊治五郎のモデルともなりました。

その嘉納治五郎とはどういう人物か、ご紹介しましょう。

御影の酒造家・嘉納家と嘉納治五郎

アジア初のIOC委員となる嘉納治五郎は、幕末の1860(万延元)年、摂津国御影(みかげ)村(神戸市東灘区御影町)で誕生しました(クーベルタンより3歳年上)。

灘は江戸時代から「灘の生一本」で知られる酒造産地として名高く、治五郎の生家もその中心的酒造家である嘉納治郎右衛門(「菊正宗」で知られる嘉納財閥本家の「本嘉納家」)の一族。

治五郎の生家も、日本酒を醸造していたそうです(写真は神戸市東灘区御影公会堂の「嘉納治五郎コーナー」で撮影しました)。

生家は菊正宗本社(本嘉納家)や白鶴本社(嘉納財閥分家の「白嘉納家」)に近い、御影の海岸にありました。

ちなみに先月、治五郎の生誕地に、石碑が設置されたそうです。

嘉納治五郎の生誕地PR 神戸・東灘に石碑完成…来年の大河登場(産経新聞サイトより)

治五郎の父・治朗作は元々近江日吉大社の四男で、婿養子として嘉納家に入るも当主を義弟に譲って辞退し、時代を先取りした汽船などを用いた運輸業に従事します。

兵庫開港が許されると、外国貿易の必要性を感じて商社を立ち上げるなど、先見の明がある実業家でした。

また治朗作は和田岬の砲台建設を請け負い、勝海舟とも親しかったと言われています。

柔術入門

治五郎が10歳だった1870(明治3)年に、母が病死。

その後治五郎は、明治政府に招聘された父と共に上京し、最初は漢学、14歳で私立育英義塾でオランダ語、ドイツ語、英語を学びます。

灘にいたころからすでに四書五経を学んでいた治五郎は、漢学でも語学でも抜群の成績を取りますが、身体が虚弱で体力もありませんでした。

育英義塾は寄宿舎生活であったため、治五郎は力の強い先輩から横暴な態度でいじめられ、非常な屈辱を味わいます。

治五郎は何としてでも身体を強くしたいと願い、非力なものでも強力のものに勝てるという柔術を学びたいと考えていましたが、親の反対により許されませんでした。

東京大学文学部に在学中の18歳で、ようやく許可が出た治五郎は、投げ技に優れた天神真楊(てんじんしんよう)流柔術家の福田八之助に入門し、初めて柔術を学びます。

当時は文明開化の時代で柔術は全く顧みられず、師を探すのにも苦労したと言います。

1879(明治12)年、実業家・渋沢栄一の依頼で、国賓として日本を訪問中のアメリカのグラント前大統領に、治五郎は柔術の演武を披露。

この年、師の福田八之助が死去したため、道場の責任者となって指導を行います。

また更なる修行のため、天神真楊流の家元である磯正智に師事し、稽古を重ねました。

柔道の創始

1881(明治14)年、治五郎は東京大学文学部哲学政治学及び理財学科を卒業します。

この頃でも治五郎は体重が13貫(約49㎏)しかなく、当時としてもかなり小柄な体型でした。

治五郎は磯正智の死後、捨て身技中心の起倒(きとう)流の飯久保恒年に新たに師事し、天神真楊流と起倒流という柔術二派の乱捕(らんどり)技術を取捨選択し、独自の「柔道」を創始します。

翌年(22歳)には、下谷北稲荷町(台東区東上野)にある永昌寺の12畳の居間と7畳の書院を道場とし、「講道館」と命名。

門人たちも警視庁武術大会などで活躍し、世の中に「講道館柔道」の名を広めていきます。

1888(明治21)年には、薩摩出身の警視総監・三島通庸(みちつね 『いだてん』に登場する三島弥彦の父)が、講道館柔道を警視庁の必修化として採用したため、柔道は全国に広まっていきます。

また1891(明治24)年、ヨーロッパ視察から帰国する船上で、大柄なロシア人士官に挑まれた治五郎は彼を投げ飛ばし、海外からも柔道は注目されました。

「言葉の力」に気づいた嘉納治五郎

柔術修行をしていた頃の話として、「先生(福田八之助)から投げられた際に、『これはどうやって投げるのですか』と聞いたところ、先生は『数さえこなせば解るようになる』と答えられた」という話があります。

修行を積み重ねて「身体で感じる」のも大事だけれど、「自らの言葉で語ることができないと、未来に生かすことができない」と彼は考えたのでしょう。

そして「言葉にしないと、他者にうまく伝えることができない」という点を、彼は見逃しませんでした。

彼が創始した講道館柔道は、技術を理論化・体系化していき、今までの「柔術」とは異なるものでした。

囲碁や将棋の世界に倣って段位制を取り入れ、医学など科学的研究にも取り組みました。

そして、「精力善用」「自他共栄」を基本理念とし、競技における単なる勝利至上主義ではなく、身体・精神の鍛錬と教育を目的としました。

理論化・近代化を進めた柔道は、のちにオリンピックの正式種目となり(『いだてん』後半の主人公・田畑政治が東京オリンピックから正式種目にしました)、世界に広まっていくことになるのです。

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