2019年9月29日(日)、滋賀県大津市坂本地区にある西教寺という寺院を訪れました。
この寺院は、明智光秀とその一族の墓があることでも知られています。
昔一度訪れたことがあったのですが、来年度の大河ドラマの主役が明智光秀だということもあり、久々にまた訪れてみることにしました。
西教寺へのアクセス(鉄道利用の場合)
私たちが利用したのは、JR比叡山坂本駅。大阪からの新快速も停車します。
ここから江若(こうじゃく)交通の路線バスに乗ります。時刻表はこちら。
ちょうど9:36のバスがすでに待っていました!これはラッキー。
バス停には行列ができていたのですが、全て「ケーブル坂本駅」から比叡山へ行こうとしている人たちで(前日に放送された『ブラタモリ』の影響?)、このバスには誰も乗りませんでした。
バスは途中、京阪電車の坂本比叡山口駅を経由して、7分ほどで西教寺門前へ。
結局西教寺まで乗ったのは私たち2人だけ。運転してもらうのが申し訳なかったのですが、紅葉のシーズンなどはもっと人が多いのかな?
このバスは休日は2時間に1本。1日に4本しかありません。
徒歩となると、行きは登りになるので、少々きついかもしれません(グーグルマップでは36分、公式サイトでは30分)。私たちは行きはバス、帰りは京阪の駅まで歩きました。
帰りは下り道なので、25分ほどで京阪電車の坂本比叡山口駅(上)に到着。
とてもモダンなデザインできれいな駅なのですが、女子トイレが和室2つしかない。もう少し増やしてもいいのにと思いました。
駅までの道は、日吉大社の参道や、『ブラタモリ』でも紹介された穴太(あのう)衆が築いた美しい石垣を見ながら歩くので、とても楽しく、歩きやすい道でした。
司馬遼太郎さんが『街道をゆく・叡山の諸道』で紹介していた、日吉そば。目立つ場所にあります。
坂本の観光案内所にも、来年の大河ドラマの幟がはためいていました。
明智光秀ゆかりの総門
西教寺は、天台系仏教の一派である天台真盛(しんせい)宗の総本山で、400カ寺の末寺を束ねる大寺院。
総門は、明智光秀が城門を移築したものであると、パンフレットに記載されています。
パンフレットには明記されていませんでしたが、「明智光秀とその一族の墓」の案内板によると、光秀の死後、坂本城の城門の1つが西教寺に移されたそうです。
それにしても、大寺院にふさわしく、堂々としていますね。
宗祖大師殿と唐門
静かな参道を歩いていくと、宗祖大師殿があります。
室町時代に西教寺を再興し、戒律と念仏を重視して、天台宗から独立した新たな宗派とした真盛(しんせい)上人の木像を祀っている建物。
幼少期の上人像。
晩年の像から骨格を調査して、京都教育大学名誉教授の山崎正義氏が製作したそうです。
立派な唐門に刻まれているのは、天台真盛宗の紋章である三羽雀です。
写真からはわかりづらいのですが、この唐門からは、琵琶湖がよく見えました。とてもいい景色!
明智光秀とその一族の墓
来年の大河ドラマの主役を演じる長谷川博己さんも訪れたという、明智光秀の墓(供養塔)。
西教寺復興に尽くしたため、一族ともども立派に祀られ、6月14日に「光秀忌」が営まれているそうです。
早世した光秀の妻・熙子(ひろこ)の墓。細川ガラシャの母でもあります。光秀の墓とは並んでおらず、一番端に、小さく立っていました。どことなく、慎ましやかです。
後世の供養塔など
明智光秀の妻・熙子の実家・妻木城主の妻木氏一族は、明智一族とともに戦い、多くは討死。
生き残った人々も、彼女の墓前で自害しました。
妻木氏の供養のため、妻木氏の故郷である岐阜県土岐市の方が、供養塔を寄進されたそうです。
その横にあったのが、松尾芭蕉の句碑。江戸時代にあって、「逆臣」光秀の妻を顕彰しました。
石碑には、「月さびよ 明智が妻の はなしせむ」と刻まれています。
黒髪を売るなどして、貧しかった若き光秀を支えた妻のエピソードは、大河ドラマではどう描かれるのでしょうか。
これは明智光秀辞世の句。
江戸時代の書物『明智軍記』に書かれている句だそうです。
農民(もしくは地侍)に不意打ちにされた光秀ですが、この句を家臣に託して自害したのだとか。
瀕死の重傷で、とっさにこんな宗教的かつ文学的な句が、すっと思い浮かぶものなのかな???
案内板には、「歴史上の論議はありましょうが、公の「顕彰会」二十周年を卜(ぼく)して、菩提寺である当山の墓所に碑を建立するものであります。」と紹介されていました。
光秀の「顕彰会」ができたのは、西教寺でもそんなに古くはなさそうですね。
「逆臣」のイメージが、どれだけ強かったかというのが、何となくわかります。
今なら「パワハラ上司・信長」「ブラック大名・織田家」の被害者として、むしろ同情されるかもしれないのに。
来年の大河ドラマでは、果たして光秀はどう描かれるのかな?
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