「水攻築堤跡」も国の史跡
NHK大河ドラマ『麒麟がくる』最終回でも紹介された、備中高松城の水攻め。
2013年6月の梅雨の合間に、この舞台となった備中高松城を訪れました。
備中高松城城址公園で、資料館や清水宗治の首塚などを見学した後、この城を苦しめた水攻めの施設も見学することにしました。
備中高松城跡だけでなく、水攻めの堰堤跡も「高松城跡 附:水攻築堤跡」として、国の史跡に指定されているのです。
軍師官兵衛こと黒田官兵衛ら、羽柴秀吉軍の土木工事の痕跡を見に行きましょう。
黒田官兵衛の名案 突貫工事で堤防完成!
備中高松城は低湿地を利用した平城で、鉄砲や騎馬の攻撃にも強かったと言われています。
秀吉はこの城を兵糧攻めにし、また足守川を堤防で堰き止めて城を水没させるという水攻めを計画しました。
具体的に工事が始まったのは1582(天正10)年5月8日で、昼夜兼行の突貫工事が行われ、幅20m(下部)、高さ7mの堤防が2.6㎞にわたって築かれました。下は高松城水攻め史跡公園にあった案内板です。
秀吉軍は数千人の人夫に高額の報酬を与え(土1俵につき銭百文、米1升)、僅か12日間で工事は完成したと言います。
水攻め自体は、木曽川周辺で育った秀吉や蜂須賀正勝の案のようですが、難工事で上手く水が堰き止められませんでした。
ここで登場するのが、軍師官兵衛。
官兵衛は大船30艘に大石を積み、その船を並べて沈め、その上に石や木材などを大量に投入して、川の流れを堰き止めることに成功したのです。
5月19日に工事は完成。梅雨時であったことも幸いし、増水した足守川はみるみる城側に流れて200haもの湖が出現しました(下は高松城址公園資料館にあったジオラマ)。
水浸しの城内では兵糧米や燃料が損なわれ、物資の補給路も断たれてしまいます。
城からの急報を受けた毛利輝元は出陣を命じますが、秀吉の築いた湖を前にして毛利軍は身動きが取れず、城を救うことは出来ませんでした。
高松城水攻め史跡公園へ
秀吉軍が築いた堤防の跡も、城と同様、史跡公園となっていました。
その名も、高松城水攻め史跡公園。
城址公園からは、徒歩で15分ほどです。
史跡公園は、別名「蛙ヶ鼻(かわずがはな)築堤跡」と呼ばれ、官兵衛の陣もこの近くにあったのだとか。
秀吉軍の築いた堤防の、東端部にあたるようです。
官兵衛の陣は、どの辺りにあったのかな?
公園には、発掘で明らかになった水攻めの痕跡もありました。
地層が違うのですね! 地味だけど、ちょっと感動。
この柱の楕円形部分は、高松城跡の高さ。かなり低いですね!
これなら水攻めで苦しめられるのも、よくわかります。
多くの農民たちが土木工事に従事したり、大きな湖が突如出現した様子を、十分イメージすることができました。
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