『週刊少年ジャンプ』連載『逃げ上手の若君』 日本の歴史を変えた若君とは?

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今、日本の中世が熱い! ついにジャンプが中世を描く!

2016年10月に出版され、学術書としては異例のベストセラーとなった、呉座勇一先生の『応仁の乱』。

これに続き、続々と中世の戦乱を題材にした新書が出版されました。

来年度のNHK大河ドラマも中世が舞台の『鎌倉殿の13人』だし、昨年度の『麒麟がくる』で注目された脚本家・池端俊作さんの『太平記』も改めて注目されています。

そして遂に、あの『週刊少年ジャンプ』にも、日本の中世が舞台の連載漫画が登場!

その名も『逃げ上手の若君』。作者は「暗殺教室」などで有名な松井優征さんです。

でも主人公の若君は、ちっとも有名ではありません。

高校生で日本史を選択していたとしても、果たして覚えているかどうかというレベルの人(受験生は知らないとまずいかも)。

かなり無名の(といったら失礼なのですが)人物ですが、よく調べてみると意外に面白かったので紹介します。

鎌倉幕府滅亡! そのとき若君は?

若君の名は、北条時行(ときゆき)

鎌倉幕府末期の幕府最高実力者・14代執権も務めた北条高時の次男です。

後醍醐天皇一派を討伐する鎌倉幕府軍の総大将・足利尊氏による、まさかの裏切り

そして難攻不落の鎌倉は、新田義貞など幕府に不満を持つ御家人軍によって陥落!

父の北条高時など北条一族が次々自害する中で、この若君は家臣に助けられて無事脱出。

このとき兄も脱出を試みるのですが、家臣の裏切りにあって新田軍に捕らえられ、処刑されてしまいました。

源平合戦の時もそうですが、将来に禍根を残さないため、敗者の男子はたとえ赤子であろうとも、徹底的に殺されます。

うまく逃げられた時行は、家臣にも恵まれ、きっと運も良かったのでしょう。

鎌倉幕府よもう一度 反後醍醐派の中心になった若君

一方、鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇を中心とする新政府は、「建武の新政」と呼ばれる大改革を断行します。

これが今までの武士社会のルールを無視しまくり。まるで時代の歯車を貴族全盛期の平安時代に戻すような印象を与えてしまい、各地で新政に反対する動きが起こります。

この動きの中、信濃国(長野県)で諏訪頼重(すわよりしげ)らに匿われていた若君・北条時行は挙兵! ちなみに諏訪頼重とは、長野県の諏訪大社上社(かみしゃ)最高の神職である大祝(おおほおり)として、自らの肉体を軍神に提供する「選ばれた尊貴な一族」です。

諏訪大社の四社巡りに挑戦!その2 上社本宮

2020年9月9日

新政に反発する東国武士たちが続々と集まり、遂には足利尊氏の弟・直義(ただよし)の軍に勝利し、直義が守る鎌倉を奪還することに成功しました。

なお、このとき脱出する足利直義は、危険人物として土牢に幽閉していた後醍醐天皇の子・護良(もりよし)親王を殺害してしまいます。

「中先代の乱」で知られる北条時行 ここでも逃げ上手!

弟・直義の敗北を知り、足利尊氏は時行を討伐すべく、大軍を率いて出発します。

このとき尊氏は後醍醐天皇に、「征夷大将軍」に任命されるよう要求しますが、後醍醐天皇はこれを却下! 「征夷大将軍」を息子に与えてしまいます(これで尊氏も天皇に反発)。

出陣直前に時行軍は台風に見舞われ、避難していた鎌倉大仏殿(当時はありました)が倒壊して多数の犠牲者が出ました。おまけに尊氏軍には連敗。

時行軍は鎌倉に追い詰められ、時行を支えていた諏訪頼重ら諏訪一族は自害。でも時行は、またも鎌倉脱出に成功したのです。

時行の鎌倉占領は僅か20日ほどでしたが、先代(鎌倉執権の北条氏)と後代(鎌倉公方となった足利氏)の間にあって、武家の都・鎌倉を支配した北条時行らの戦いは、「中先代(なかせんだい)の乱」と呼ばれ、教科書にもしっかり記載されています。

ちなみにこの乱の後、足利尊氏は後醍醐天皇に反旗を翻し、いわゆる「南北朝の動乱」が始まりました。

北条時行が鎌倉を占領しなかったら、その後70年間にもわたる南北朝の動乱、そして足利尊氏による室町幕府の創建などはなかったかもしれません。

そういうことを考えると、北条時行は、日本の歴史を変えた人物かな?

3度も鎌倉攻略に成功した北条時行

中先代の乱の後、北条時行は南朝側で、足利尊氏・直義兄弟と戦いました。

そして2度目の鎌倉奪還に成功!

勢いづいた南朝側は京都奪還を目指し、時行も北畠顕家(きたばたけあきいえ)と共に進軍しますが兵を消耗し、直接京都を狙うことは諦めて、伊勢経由で京都に向かいました。

足利尊氏軍と連戦し、遂に総大将の北畠顕家は和泉国石津(大阪府堺市)で討死。しかし時行は生き延び、脱出に成功するのです。

やがて足利尊氏・直義兄弟が分裂・抗争し、南朝方と三つ巴の争いを繰り広げることとなりました。いわゆる「観応の擾乱(かんのうのじょうらん」

このとき南朝方は京都と鎌倉の同時奪還を計画し、北条時行は鎌倉に侵攻して初代鎌倉公方・足利基氏(尊氏の子)を破って3度目の鎌倉奪還!

「鎌倉攻め」といえば新田義貞が有名ですが、3度も鎌倉攻めを成功させた武将がいたとは!

しかし京都も鎌倉も尊氏軍に奪還され、北条時行も翌年捕まって鎌倉で処刑された(享年20代半ば?)、或いは伊勢国で生き延びたとする説などがあるようです。

あの『麒麟がくる』は、敢えて希望のある終わり方にしたそうですが、この作品は、主人公や周囲の人々、そして戦乱をどのように描いていくのでしょうか。目が離せませんね!

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