今年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』は、北条義時が主人公。
でも北条義時って、平清盛や源頼朝、北条政子ほどにはよく知られていませんね。最後まで生き残るのに。
そんな北条義時や北条氏の面影を尋ねて、2021年3月27日(土)、桜の花咲く静岡県伊豆の国市を訪れました。
八重姫か政子か 悩ましい選択
願成就院で北条時政の墓参りをした後、次の目的地を選ぶのに、少し困りました。
というのは、頼朝の最初の妻・八重姫ゆかりの眞珠院と、北条政子産湯之井戸は全然方角が違うため、時間に余裕のない私たちには、1つしか選ぶことができなかったのです。
八重姫を選ぶか、政子にするか。源頼朝のように「どっちも!」とはいかないのが、悩ましい。
結局この時は、知名度に勝っていた北条政子産湯之井戸に行くことを決めました。
地元の伝承では、頼朝の最初の妻であった八重姫は、京から戻った父の伊東祐親(いとうすけちか)に男児・千鶴丸を殺害されて頼朝も殺されそうになり、伊東館を脱出した頼朝は、その後北条政子と結ばれてしまいます。
頼朝を追ってきた八重姫は彼の心変わりを知り、悲しみのあまり、眞珠院の南にあった淵に身を投げたのだとか。
頼朝ってやっぱりひどい! でもきっと、近所の坂東武者にはない、セレブな都育ちオーラ漂う薄幸のイケメン流人だった(誰もまだ「鎌倉殿」になるとは思ってない)から、女性たちは夢中になってしまうのかな。
八重さん、今回は行けなくてごめんなさいと謝りながら、政子ゆかりの地を目指します。
頼朝と政子 ゆかりの地
願成就院から産湯の井戸に向かって歩くと、朱色の門が美しい寺院がありました。
光照寺という、願成就院の支院だった寺院で、源頼朝の宿館跡とも伝えられる寺院。
また、政子が鎌倉で、病床にあった長男で2代将軍・頼家の顔を写させたという「病床の面」も光照寺にあるそうです。母親とは言え、苦しむ息子の顔を残そうとするなど、なかなかできるものではないのかも。
更に進むと、このような案内板もありました。
頼朝と政子は、この道で逢瀬を重ねていたのでしょうか。とてもロマンチックです。
更に進むと、このような案内板もありました。いろんな路があるものです。
北条の里さんぽ道の方に曲がり、更に曲がると、北条政子産湯之井戸に到着です。
安産にご利益があるとして、最近まで実際に妊婦が飲んていだのだとか。
立派な井戸です。水もまだあるようでした。
源頼朝の妻・政子は北条時政の長女として1157(保元2)年、この地に誕生しました。その時に産湯の水をとったのが、この井戸と伝えられています。
政子も八重姫同様、父の時政が京に赴任中に頼朝と結ばれますが、父の反対を押し切って恋を貫き通しました。
また、生まれた子供が平家が恐れる男児でなく、平家に弓引く恐れのない女児であったことも、時政の態度を軟化させたことでしょう。
八重姫の生んだ子が女児であったら、また歴史は変わっていたかも知れませんね。
足利茶々丸も住んでいた? 伝堀越御所跡
この井戸の近くには、「伝堀越御所跡」と呼ばれる史跡がありました。
室町幕府中期、幕府の関東拠点である鎌倉府のトップ・鎌倉公方(かまくらくぼう)5代目となった足利成氏(あしかがしげうじ)は、鎌倉府内部の対立から幕府軍とも戦うこととなり、鎌倉を放棄して下総の古河(茨城県古河市)を根拠地としました。そのため「古河公方(こがくぼう)」と呼ばれます。
一方幕府側は成氏の関東支配を認めず、新たな鎌倉公方として足利政知(8代将軍・足利義政の異母兄)を派遣しますが、足利成氏側の勢力が強くて鎌倉に入ることができず、鎌倉手前である伊豆国の堀越にとどまり、「堀越公方(ほりごえくぼう)」と呼ばれました。
堀越公方の勢力は弱く、初代政知の死後には相続争いも起こり、異母弟と継母を殺害して父の跡を継いだ足利茶々丸も、やがて伊勢宗瑞に敗北して自害。
先ほど訪れた願成就院でお墓を探したけれど、見つけられなかった、あの足利茶々丸です。
この場所が本当に堀越御所の跡かどうかはわからないようですが、今はのどかなこの場所が、昔は関東の中心地の1つだったというのは面白いですね。
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