鎌倉で北条氏や鎌倉幕府の足跡+&を訪ねる旅12 比企一族滅亡の地・比企ヶ谷の妙本寺

スポンサーリンク



頼朝の恩人・比企尼に与えられた比企ヶ谷

2021年3月初旬、鎌倉を訪れました。今回の旅の目的は、『鎌倉殿の13人』に登場する北条氏や鎌倉幕府に関係する場所に行ってみること。

北条執権邸跡や土佐坊昌俊の屋敷跡、若宮大路幕府跡などを訪れた後は、

鎌倉で北条氏や鎌倉幕府の足跡+&を訪ねる旅11 若宮大路幕府跡・妙隆寺・日蓮上人辻説法跡

2022年6月22日

鎌倉で北条氏や鎌倉幕府の足跡+&を訪ねる旅10 北条執権邸跡・土佐坊昌俊邸跡・青砥藤綱旧跡

2022年6月19日

『逃げ上手の若君』ゆかりの地2 北条氏滅亡の地・東勝寺跡と腹切りやぐら

2021年3月12日

比企ヶ谷(ひきがやつ)の妙本寺を訪れました。

ここは頼朝の死後、鎌倉幕府の2代将軍となった源頼家を養育した比企一族の館があった場所。

「谷」とあるように、三方を山に囲まれた鎌倉の谷の1つで、人の住みやすい場所でした。

鎌倉を本拠と定めた頼朝は、流人時代の自分を経済的にも支えてくれた乳母の比企尼(ひきのあま)とその一族に、この谷を与えたため「比企ヶ谷」と呼ばれました。

現在は、見事な八角堂の建物がある比企谷幼稚園があったり

日蓮宗の妙本寺が建っているこの場所で、1203年に比企一族は滅亡したのです。

比企能員の変と妙本寺

比企氏の当主・能員(よしかず)は、比企尼の甥(養子)。

妻とともに2代将軍頼家を養育し(乳母夫)、娘の若狭局は、頼家の愛妾となって一幡(いちまん)という男児を産みました。

自然、鎌倉幕府における比企氏の勢力は強まっていきます。

一方、頼家にとって母方の祖父にあたる北条時政やその子義時は、この時期幕府の中心勢力から外れていました。

しかし北条時政は、娘(政子の妹)の阿波局(大河ドラマでは「実衣」)が乳母として養っている頼家の弟・実朝を擁していました。

頼家が危篤状態になった状況を利用して、北条時政は比企能員を館に招いて暗殺し、6歳の一幡も殺害するため兵を差し向けます。比企氏の勢力拡大に反発していた有力御家人たちも、北条氏と共に比企氏を攻撃しました。

館に残っていた比企一族は懸命に戦いましたが、一族は滅亡。

ただ、比企能員の妻妾と2歳の末子・能本(よしもと)は助命され、安房国へ配流となります。能本は出家し、京で順徳天皇に仕えました。

後に鎌倉に戻った能本は、命がけで辻説法を行っていた日蓮に帰依し、比企氏の館跡を彼に献上しました。それが妙本寺です。

この祖師堂は、鎌倉最大級の木造建築なのだとか。

比企一族の供養塔と一幡の袖塚

境内には、一族の供養塔もありました。大きな石塔が比企能員夫妻のものでしょうか。

ずらりとならんだ石塔が、凄惨な戦いを物語っています。

一幡については、炎の中で死んだとも(焼け焦げた小袖が発見された)、母が連れて逃げたけれど、北条義時の家臣に発見されて殺されたとも言われています。

一幡の袖塚です。大河ドラマでは、善児が彼を殺す可能性もあるのかな? 義時が自ら手を下す展開も考えられそうです。

北条義時の孫娘に取り憑いた若狭局の怨霊

彼の母・若狭局は池に身を投げたとも、炎の中で死んだとも言われています。

恨みを残して死んだ彼女は蛇の怨霊となり、北条政村(義時と彼の3番目の妻・伊賀局の長男)の娘に取り憑いたようです。

政村が写経や供養などを行い、妙本寺の境内に蛇苦止堂(じゃくしどう)を建てたため、娘は回復したとか。

この蛇苦止堂に行きたかったのですが、道に迷ってしまいました。

この境内地図を見ればよかったのですね。場所がわかりにくい。

そもそも北条氏が比企一族を滅ぼさなければ、義時と姫の前(比企氏の娘 大河ドラマでは比奈という名前)も離婚することはなく、義時が伊賀局と結婚して政村が産まれることもなかったのです。

比企氏の出身ともされる鎌倉時代の天台僧・仙覚が、ここで万葉集の研究を行ったことを記念する石碑(上の写真)や、一幡の妹・竹御所(4代将軍・藤原頼経の妻になる)の墓もある(これは見逃しました)など、とても見どころの多い寺院です。

鎌倉で北条氏や鎌倉幕府の足跡+&を訪ねる旅20 4代将軍が建立した明王院

2022年7月4日

境内図をしっかり見て、見落としのないように見学してくださいね!

スポンサーリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です