三島駅南口からバスで山中城へ
2021年3月21日(土)、三島市を訪れることができました。
三嶋大社を参拝した後は、以前テレビで紹介されて気になっていた山中城跡へ。
三島駅南口からは、東海バス「元箱根行き」に乗って「山中城跡」で下車。約30分で到着です。
私たちは午前中伊豆の国市を訪れるなど、三島市滞在が半日しかなかったので利用しませんでしたが、東海バスからは「三島一日券みしまるきっぷ」という1日乗り放題切符があるそうです。
山中城跡に行く途中で「三島スカイウォーク」があったので、三島観光を楽しみたい人にはおすすめです!
ちなみに『ウィキペディア』によると、三島駅から東海道を3時間程歩けば到達するそうですよ。
山中城を築いた北条氏と、鎌倉殿の側近・北条氏は別の一族!
山中城とは、戦国時代、北条氏によって築かれた城です。
北条氏と言っても、『鎌倉殿の13人』に登場する北条時政・政子・義時らの北条氏ではなく(午前中は、彼らの史跡を訪ねていました)
室町幕府の御家人・伊勢新九郎を祖とする戦国大名で、『鎌倉殿』に登場する北条氏とは全く別の一族です。
新九郎は伊豆国を攻め、北条の里に御所を構えていた堀越公方・足利茶々丸を攻め滅ぼし、韮山城(北条に近い)を奪って拠点としました。そして伊豆国と相模国を平定します。
新九郎(出家して伊勢宗瑞と名乗る)の死後、子の氏親は小田原城を拠点として武蔵半国、下総や駿河の一部も領有するなど関東地方を支配。
しかし元相模国守護であった上杉氏から「他国者の侵略者」と反発され、これに対抗するため、伊勢氏親は鎌倉執権北条氏の後継者として、「北条」を名乗ります。伊勢宗瑞も「北条早雲」と死後に呼ばれました。
北条氏親の正室は、執権北条氏の末裔との説もあるようですね。
北条早雲の姉が側室となっていた今川家と異なり、北条家は京都との接触は最低限に留め、鎌倉幕府のように関東を独立国家としたかったという説もあります。面白いですね!
最初に拠点とした場所や発想は同じでも、同じ「北条」だと紛らわしいので、戦国時代の北条氏は「後北条氏」とか「小田原北条氏」と呼ばれます。大河ドラマ『真田丸』でも描かれていましたね!
公園としても美しい山中城跡
さて、山中城跡は正式には「山中城跡公園」と呼ばれています。
「城跡」という言葉を聞くと、天守閣など建物は残っていないけれど、石垣くらい残っているのではと思う人もいるかも知れません。
ところが山中城跡には、石垣は一切ありません。
土塁と堀だけの、いわゆる「土の山城」で、中世によく見られた形式なのだとか。
特に美しいのが、この障子堀と呼ばれる堀の形式。こんな堀、他に見たことがありません! まるでワッフルのようです。
通常の堀を畝で区切っているため、侵入する敵は通常の堀よりも更に動きが制限され、防御に役立つのだとか。土が関東ローム層だと、更に滑りやすくなって、とても這い上がれないようです。
確かに堀は高そうで(はしごがかかっているので高さがなんとなくわかります)、すぐに城兵に射殺されてしまいそう。美しいけれど実は恐ろしいキルゾーンです。
障子堀でも勝てなかった秀吉軍の猛攻撃
この城を築いたのは、小田原北条氏3代目の北条氏康。
小田原城の西の防備を担う、最重要拠点として築城されました。
北条氏康の子・氏政の時代に豊臣秀吉との関係が悪化し、秀吉が小田原攻めを決定すると、山中城は急遽改修や増築が行われたのです。
しかし作業が完了しないまま、4千の城兵が籠もる山中城は、秀吉軍4万人の攻撃を受けました。
障子堀など強力な防御施設があっても、圧倒的兵力の差と鉄砲での攻撃の前に、激戦の末、山中城はわずか半日で落城してしまいます。
今回時間がなくて行くことができませんでしたが、三の丸にある宗閑寺には、この戦いで討ち死にした武将たちの墓があるとか。
こんなにすごい障子堀があっても、秀吉軍には勝てなかったのですね。兵力差10倍の人海戦術恐るべし。
売店が閉店でも安心! 御城印が手に入る
障子堀が美しい山中城は、日本100名城の1つで御城印もあります。
御城印は山中城跡売店で販売されているのですが、午後に訪れた私達は見学に時間がかかってしまい、売店はすでに営業を終了していました。
せっかくここまで来たのにと、ちょっとがっかりしていましたが、
なんと、郵送で送ってもらえる時間外受付箱が!
御城印300円の他に送料が200円かかりますが、全然問題ありません。必要な筆記具なども、全て揃っています。
無事に送ってくるかな?と思っていたら
数日して、無事に自宅に御城印が届きました。想像していたより、ずっと早く届いたので嬉しかった!
せっかくお城を訪れたのに、発売している資料館が休日だったりして、御城印がもらえなかったことがあるので、このシステムはもっと広まってほしいなと思いました。
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