鎌倉で北条氏や鎌倉幕府の足跡+&を訪ねる旅14 和田義盛と一族が眠る和田塚

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和田一族の眠る和田塚へ

2021年3月初旬、鎌倉を訪れました。今回の旅の目的は、『鎌倉殿の13人』に登場する北条氏や鎌倉幕府に関係する場所に行ってみること。

比企一族が滅亡した場所に建つ比企ヶ谷の妙本寺や、北条政子ゆかりの大町の安養院を訪問した後は、

鎌倉で北条氏や鎌倉幕府の足跡+&を訪ねる旅13 大町の寺社(常栄寺から安養院へ) 

2022年6月24日

鎌倉で北条氏や鎌倉幕府の足跡+&を訪ねる旅12 比企一族滅亡の地・比企ヶ谷の妙本寺

2022年6月23日

和田義盛とその一族の墓と伝わる和田塚へ。

途中、若宮大路にある鶴岡八幡宮の一の鳥居や、畠山重保の供養塔を見ることができました。

鎌倉で北条氏や鎌倉幕府の足跡+&を訪ねる旅3 鶴岡八幡宮の鳥居と参道・畠山重保供養塔 

2022年6月3日

江ノ島電鉄和田塚駅のすぐ近くに、和田塚はありました。

江ノ電の線路です。JR横須賀線と違って単線で、ほのぼの感がありますね。

でも、夕暮れ近かったからか、和田塚にはどこか暗い影が漂っていました。

ここは1213年、2代執権北条義時に反旗を翻して(和田合戦)敗死した侍所(さむらいどころ)の別当(長官)・和田義盛とその一族が眠る場所と伝えられています。花も手向けられていました。

今は住宅地ですが、昔はこの辺りは由比ヶ浜の海岸地帯で、和田合戦の際の激戦地の1つ。

元々この土地は古墳だったようですが、大正末期に開墾のためこの地を掘り起こした所、大量の人骨が見つかりました。中には刀を持っていたものもあったとか。

初代侍所長官・和田義盛

和田塚に眠る和田一族の当主・和田義盛は、三浦氏の一族。

彼の父は相模国(現神奈川県)三浦半島を支配する三浦一族の当主・三浦義明の嫡男であった三浦義宗ですが、義宗は合戦の傷がもとで39歳で死去。

三浦氏は義明の二男・義澄に率いられることになりました。義澄の嫡男が三浦義村です。

一方義宗の嫡男の義盛は、三浦半島の和田の里に所領があったので和田義盛と名乗り、三浦の分流となりました。

しかし初期の鎌倉幕府においては、頼朝から戦争の際などに御家人を招集・指揮する侍所(さむらいどころ)の初代別当(長官)に任命され、北条時政や義時、そして三浦氏当主の座を継いだ三浦義村以上に重要な役職を担っていました。

もちろん『鎌倉殿の13人』の13人のメンバーでもあります。

和田合戦

1213年に発覚した泉親衡(いずみちかひら)の乱で、源頼家の遺児・千寿を将軍に擁立して北條氏打倒を企てていた一味として、和田義盛の子供たちや甥が逮捕されました。

2代執権北条義時は、義盛の子どもたちは赦免したものの、甥には恥辱を与えて和田一族の面目を潰し、この仕打に怒った和田義盛は館に兵を集め、三浦義村も味方に引き込みました。

しかし三浦義村は裏切って義時に通報。三浦義村の寝返りの理由は、大河ドラマではどう描かれるのでしょうか? 少し単純で思慮に欠点もあった和田義盛は、義時の敵ではないと冷静に判断したのでしょうか? それとも本家と分家の意地の張り合いかな?

義時は将軍の源実朝や北条政子を守り、三浦義村らとともに将軍御所を守って戦います。

幕府軍には次々と新手が加わり、激しい市街戦の末、ついに和田義盛ら和田一族は力尽きました。

合戦後、和田一族234人もの首が晒されたと言われています。

鶴岡八幡宮といい、妙本寺や和田塚といい、鎌倉の史跡には暗殺と戦争で血塗られたものが多いですね。武士の都の故でしょうか。

後鳥羽上皇や公家たちにとっては、とても理解できない恐ろしい場所だったに違いありません。

ところで、和田義盛と再婚した巴御前ですが、和田合戦の後どうなるのでしょうか? 彼女については、和田合戦を生き延びた和田義盛の子・朝比奈義秀の母とする伝承もあります。どこかで生き延びていてほしいな。

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