寺院ではなく屋敷に住んでいた文覚上人
2021年3月初旬、鎌倉を訪れました。今回の旅の目的は、『鎌倉殿の13人』に登場する北条氏や鎌倉幕府に関係する場所に行ってみること。
今日も鎌倉駅から徒歩移動し、最初の目的地、永福寺(ようふくじ)跡を目指すことにしました。
その途中で、筋替橋の石碑を見た後
滑川(なめりかわ)を渡った場所に文覚上人の屋敷跡があるというので、少し寄り道をして見に行きました。
そして橋を渡って少し行くと、屋敷跡を示す石碑です。
文覚上人は僧侶だから、鎌倉の大寺院に住んでいたのだろうと思っていたのですが、屋敷に住んでいたのですね。
宗教者には違いないと想うのですが、どこか政治家っぽい、稀代のアジテーターのような文覚上人らしいなと思いました。
波乱万丈の生涯を送った文覚上人
文覚上人は、鳥羽天皇の皇女に仕えていた北面の武士・遠藤盛遠(摂津源氏の傘下にある渡辺党出身)でした。
19歳で人妻である袈裟御前に横恋慕し、誤って彼女を殺してしまったのが出家の原因とも言われています。
荒行をやったというのも、いかにも武士出身の文覚らしい行動ですね。
その後京都の神護寺に参拝し、寺が荒れ果てているのを嘆き、後白河天皇に再興を直訴しましたが、伊豆国に配流されてしまいました。
渡辺党の棟梁で摂津源氏の源頼政が伊豆の知行国主であったため、一族の不始末の責任を取らせるという意図もあったのでしょうか。
ここで文覚は、同じく伊豆国に流されていた頼朝と出会います。
『平家物語』では、頼朝に父親である義朝のしゃれこうべを見せて蹶起を促したとか。
頼朝と親しい文覚は、神護寺を再興させるなどの活躍の一方、頼朝が死ぬといろいろな政争に巻き込まれ、1199年には佐渡国に配流。
許された後も1203年に後鳥羽上皇から謀反の疑いをかけられ、対馬国へ配流される途中、九州で亡くなったそうです。
天台座主(天台宗僧侶の最高位)であった慈円(兄は関白の藤原兼実)が著した『愚管抄』では、文覚は行動力はあるが学識はなく、乱暴で人の悪口を言い、天狗を祭ると書かれています。なかなかの辛口評価!
また、同じく北面の武士出身で和歌に優れ、同時代に生きた西行を憎んでいたとの噂もあったそう。確かにこの2人、性格的に合わなさそうですね!
江ノ島とも縁があった文覚
実は文覚上人は、1182年に源頼朝の命令により、江ノ島の岩屋に弁財天を勧請(かんじょう 分霊して他所で祀ること)したと伝えられています。
そのため江ノ島は歴代の鎌倉幕府将軍や執権から崇敬を受け、その後の領主や武家政権からも厚い保護を受けました。
北条氏とゆかりのある江ノ島も、文覚上人が弁財天を勧請しなければ、今のような観光名所になっていなかったかも???
後世に残した影響を考えると、ライバル視していた西行に勝っているかも知れませんね!
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