鎌倉で北条氏や鎌倉幕府の足跡+&を訪ねる旅16 筋替橋と三浦泰村の悲劇

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永福寺跡への道

2021年3月初旬、鎌倉を訪れました。今回の旅の目的は、『鎌倉殿の13人』に登場する北条氏や鎌倉幕府に関係する場所に行ってみること。

1日目は安達盛長邸跡と甘縄神明宮訪問で幕を閉じましたが

鎌倉で北条氏や鎌倉幕府の足跡+&を訪ねる旅15 安達盛長屋敷跡と甘縄神明宮

2022年6月25日

今日は再び、鎌倉駅から徒歩移動スタートです!

最初の目的地は、永福寺(ようふくじ)跡。歩いて30分ほどです。

源頼朝が建立した寺院で、鶴岡八幡宮や勝長寿院とならんで当時の鎌倉三大寺社の1つでした。

今回勝長寿院を訪れる機会はなかったのが、少し残念です。

筋替橋と三浦泰村

今日、最初に目に止まったのがこの石碑。

「筋替橋(すじかえばし)」とありましたが、橋の面影はありません。水路は地下に埋没しているそうです。

昔は鎌倉の中心にある主要な橋で、橋の下には滑川(なめりがわ)が流れていました。

金沢街道(六浦道)に対して橋が「斜め」に架けられたことから、筋違橋〔筋替橋〕という名前になり、江戸時代には、「鎌倉十橋」の1つとして観光名所にもなっていたそうです。

5代執権北条時頼(義時の曾孫)の時代、三浦泰村(三浦義村の次男)の館がこの近くにありました。

「泰村」の「泰」は、烏帽子親の北条泰時から拝領した文字。

承久の乱の頃に元服し、父親の義村と共に承久の乱では幕府軍の一員として活躍しました。泰村の年齢はわかりませんが、泰時はこのとき39歳。親子くらいの年齢差です(朝村という兄がいたようですが、亡くなったのか余り記録がありません)。

泰時の娘を正室にして(後に死別)北条氏の一門衆になり、彼が設置した評定衆(ひょうじょうしゅう)の一員になって幕政にも参加しています。

4代将軍・藤原頼経とも親密になり、泰村の弟・三浦光村は北条執権体制に反発していました。

三浦泰村の勢力はやがて北條氏を凌ぐほどとなり、それに反発する安達氏や5代執権北条時頼らによって、妻子一族もろとも滅ぼされてしまいました。

この事件は「宝治合戦」と呼ばれています。

ちなみにこの合戦で、反三浦の急先鋒だったのが、安達盛長の嫡男・安達景盛でした。松下禅尼の父で、北条時頼の外祖父になります。

鎌倉で北条氏や鎌倉幕府の足跡+&を訪ねる旅15 安達盛長屋敷跡と甘縄神明宮

2022年6月25日

執権の外祖父なのに、三浦氏の風下に甘んじているというのが、安達景盛には我慢できなかったのでしょう。

梶原、比企、畠山、和田、三浦、安達など、源頼朝とともに幕府草創期に活躍しながら、その後滅んだ有力御家人達のなんと多いことか。

ちなみに、宝治合戦で大敗し、追い詰められた三浦泰村一族は、亡き頼朝の墓前で死のうと法華堂前に集まり、自害したそうです。

頼朝の墓は昨日訪れたのですが、三浦泰村一族の墓もあったとは。

鎌倉で北条氏や鎌倉幕府の足跡+&を訪ねる旅7 源頼朝の墓

2022年6月9日

場所は上の地図をご覧ください。三浦一族の冥福を祈りたかったな。

三浦泰村の妹婿となった大江広元の四男・毛利季光もこのとき三浦一族とともに戦って自害しましたが、彼は後に、その子孫である長州藩主・毛利家によって、大江広元とともに頼朝の墓の近くに葬られています。

鎌倉で北条氏や鎌倉幕府の足跡+&を訪ねる旅9 大江広元・毛利季光・島津忠久の墓

2022年6月13日

畠山重忠もこの近くに住んでいた

実はこの橋の西北には、畠山重忠の屋敷もあります。

畠山重忠の屋敷跡は、昨日訪れたのですが

鎌倉で北条氏や鎌倉幕府の足跡+&を訪ねる旅6 畠山重忠邸跡~大倉幕府跡

2022年6月7日

別の道を通ったので、筋替橋の存在には気づきませんでした。

鶴岡八幡宮や北条義時ら執権が館を構えた場所(現在は宝戒寺)にも近いので、この橋は本当に、鎌倉時代のメインストリートに架かっていた橋だったのかもしれませんね。

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