2022年8月29日(月)、初めて岩手県の盛岡市を観光しました。
北上川沿いの城下町・盛岡
盛岡は北上川上流に位置し、平安時代初期には、桓武天皇の命令により蝦夷征討のための志波城という古代城柵が造営された場所。日本史の教科書でおなじみの城柵でしたが、まさか盛岡市にあったとは。
北上川の上流なので、盛岡市内には四十四田(しじゅうしだ)ダムもあります。
偶然、こんなメッセージを見つけました。ちょっと警戒します。
ちなみに、ダムはこんな場所にあるようです。盛岡からとても近いのですね。
今回志波城に行く時間はありませんでしたが、安土桃山時代に南部氏が築いた盛岡城跡を見学に行きました。
南部(盛岡)藩10万石の城下町として繁栄した盛岡市。
しかし幕末には奥羽越列藩同盟に加盟して新政府軍と闘い、戊辰戦争で敗北しました。
廃藩置県で城も廃城となり、老朽化が激しかったため、ほとんどの建物が解体移築されたそう。今は城跡の石垣や堀を残すのみです。
木々の緑と赤い橋が美しい盛岡城跡公園(岩手公園)
城跡は盛岡城跡公園(岩手公園)として、立派に整備されていました。
堀沿いの緑がとても美しい。
発掘整備中の石垣もありました。
二の丸と三の丸の間には、赤い橋が架かっています。
本丸跡。
ここも発掘調査が進められているようでした。
盛岡と石川啄木
盛岡出身の有名人として忘れてはいけない人物の1人が、歌人・詩人として名高い石川啄木です。
城跡公園に行く途中通った商店街で、
偶然、彼の銅像を見つけました。彼の歌「新しき明日の来るを信ずといふ 自分の言葉に嘘はなけれど」が刻まれています。
今は商店街になっているけれど、昔は盛岡城菜園の跡地で、盛岡中学校(のちに宮沢賢治も通う)時代の啄木がよく通った場所なのだとか。
そして盛岡城址公園にも、啄木の歌碑がありました。
二の丸方面で、案内板も完備されているので迷うことはないと思います。
盛岡中学校に優秀な成績で合格した石川啄木でしたが、恋愛と文学活動(短歌・詩・評論などを同人誌で発表)にのめりこみ、次第に学業がおろそかになっていきました。
授業を抜け出しては、よくこの場所に来ていたのだとか。
この場所からの眺めはなかなか良くて、彼が来たくなる気持ちもわかりました。
彼の短歌「不来方(こずかた=盛岡城の別名)のお城の草に寝ころびて 空に吸はれし十五の心」が刻まれています。歌碑の文字は彼の先輩で言語学者の金田一京助博士の書です。
なんとなく尾崎豊の『15の夜』に近いものを感じました。
学校へのいら立ちとか、漠然とした将来への不安とか、いろいろなものを抱えながら、彼はこんな空を見ていたのかな。この日の空は、本当に吸い込まれそうな青さでした。
ちなみに、盛岡市で8:30、正午、18:00に流れる時報チャイムは、啄木の詩に古賀政男が作曲した「春まだ浅く」という曲。哀愁のあるメロディーで、盛岡が啄木との結びつきを大切にしているということがよくわかりました。
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