『鎌倉殿の13人』終盤ゆかりの地 承久の乱発端となった亀菊ゆかりの椋橋惣社と神崎遊女塚

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NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』もいよいよ今日が最終回。承久の乱が山場になりますが、ゆかりの地をいくつかご紹介します。

鯉の宮・椋橋惣社とは

最初にご紹介するのは、大阪府豊中市にある椋橋(くらはし)惣社。昨年9月に訪れました。

スサノオノミコトが高天原から鯉に乗り、神崎(神崎川)の湊を経てこの地に降臨したのだとか。

神功皇后も新羅討伐の際にここを訪れ、祈りをささげたと言われます。

神の使いは鯉なので「鯉の宮」とも呼ばれています。

奈良時代の名僧・行基がこの近くを流れる猪名川(いながわ)に橋をかけようとしたけれど流れが速くなかなか工事が進まないことがありました。行基がこの社に祈ったところ、どこからともなく数多くの鯉が集まり、並んで魚橋を作ってくれたので無事に工事は成功し、行基は村人に鯉を取ったり食べたりすることを禁じたのだとか。

御朱印(300円)にも、ちゃんと鯉が描かれていました。

死んだ鯉は、この鯉塚に埋めたとか。鯉を祀っている関係で、広島東洋カープファンが必勝祈願に訪れることもあるそうです。

後鳥羽上皇の亀菊を祀る出世亀菊天満宮 彼女の荘園が承久の乱の発端!

本堂とは別に、境内には「出世亀菊天満宮」という社もありました。

白拍子出身で、後鳥羽上皇の寵姫となった亀菊の信仰していた天満宮だそうです。

亀菊は摂津国長江荘・椋橋荘を上皇から与えられたものの、地頭が領主の亀菊側と紛争になり、後鳥羽上皇は地頭を免職せよと、実朝が暗殺されて鎌倉殿の後継者が未だ決まらぬ幕府に要求します。

その「命令を聞かない地頭」こそ、北条義時その人だったのですね! 鎌倉からかなり遠い摂津国にも義時の足跡があったとは!

義時ら幕府はこの上皇の要求を断固拒否。北条時房(トキューサ)が1,000騎の軍勢を率いて都に乗り込んでいくのが第46話。蹴鞠対決があったかどうかはわかりませんが、とにかく親王ではなく摂関家から次の鎌倉殿を迎えることに成功しました!

訪れたのは昨年の夏だったのですが、すでに『鎌倉殿』ムードは満点でした。神職も承久の乱のことをいろいろ調べておられるそうです。

神崎の遊女塚と石灯籠

後鳥羽上皇の寵姫となった亀菊は、江口の遊女出身と言われています。

江口は神崎川と猪名川が合流する場所(大阪市東淀川区)で、すぐ近くの神崎(兵庫県尼崎市)とともに河川交通の要衝として栄え、遊女や白拍子が多く住んでいました。

江口にはあまり昔の面影を偲ぶものがなさそうですが、椋橋惣社からも近い神崎には、中世の面影が残っていました。

兵庫県尼崎市にある「遊女塚」は、1207年(『鎌倉殿の13人』では「穏やかな一日」=長澤まさみ登場回の前年)、讃岐国に配流となる法然上人がこの地で説法を行い、それを聞いて罪業を恥じ入水した遊女5人を供養したと伝わる場所。

生きるためとはいえ、彼女たちもこの稼業が辛かったのでしょう。

この近くには、神崎の津(港)で働く人々から寄付を募って建てられた大きな灯籠もありました。「金比羅さんの石灯籠」と呼ばれ、灯台の役目を果たしていたとか。昔は行きかう船や人々でとても賑わっていたのだなと思いました。

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