朝の連続テレビ小説『らんまん』主人公のモデル・牧野富太郎ゆかりの地を、昨年から今年にかけて訪ねることができました。
昨年6月26日(日)、牧野富太郎が生まれた町・高知県佐川町に行き、富太郎が11歳から教育を受けた名教館(めいこうかん)や富太郎の生家跡に建つ牧野富太郎ふるさと館、牧野公園を見学しました。
「近代土木の父」廣井勇 『らんまん』広瀬佑一郎のモデルだった!
佐川町は、「日本植物学の父」牧野富太郎の出身地として有名ですが、実は彼以外にも多くの優秀な人材を輩出しています。
その1人が、廣井勇(ひろい いさみ)。連続テレビ小説『らんまん』では、万太郎の名教館時代の学友・広瀬佑一郎のモデルです。
最初は新入りの富裕な平民・万太郎に反発し、剣術で痛めつけようとしていましたが、ただのいじめっ子ではなく、今は万太郎の実力を認めている、士族の少年たちのリーダー格。なかなかいい役だと思います。
下の写真は「酒蔵の道」沿いにある、さかわ観光協会併設の「うえまち駅」にあるパネル展示の廣井勇。
牧野富太郎とは同じ年に生まれた廣井勇は、酒屋の富太郎とは違って士族の家柄。名教館に学びますが、9歳で父と死別し上京。叔父の家で寄宿しながら学問を続け、16歳の時、学費全額&生活費も国から支給される札幌農学校の二期生として入学(富太郎と違い、お金に苦労していた)。同級生には、新渡戸稲造や内村鑑三がいました。
当時の教頭には、帰国したクラーク博士に代わって若き土木技術者のホイーラーが就任し、札幌時計台や豊平橋の設計で活躍。幼いころに聞かされた「南海大地震の津波から堤防が人々の命を救った」という話と共に、勇が土木技師になるきっかけとなりました。また内村や新渡戸らとともに洗礼を受け、生涯クリスチャンでした。
卒業後は開拓使を経て工部省鉄道局技師となり、その後私費で海外に渡って土木技師として採用される傍ら、橋梁建築の技術書も出版。札幌農学校から工学科助教授への就任を打診されると、ドイツの大学に1年半留学して土木工学と水利工学を研究しました。
帰国して札幌農学校の工学科教授に就任する一方、函館港や秋田港、小樽港(小樽港北防波堤が有名)の設計指導に当たりました。その設計に感服した東京帝国大学工科大学初代学長・古市公威の推薦により、学外出身者にもかかわらず工学博士号を得て、東京帝国大学教授となって多くの学生を育てたのです。
佐川文庫庫舎敷地内には、彼の銅像もありました(2021年設置)。台座には「近代土木の礎を築いた清きエンジニア」と刻まれています。ちなみに「清きエンジニア」という言葉は、彼の葬儀の際、親友・内村鑑三が弔辞で述べたものでした。
白亜の美しい木造洋館・佐川文庫庫舎
この廣井勇の銅像が立っている「佐川文庫庫舎」の建物がとても素敵なのです。
鹿鳴館時代の雰囲気を伝える、1886(明治19)年に建てられた高知県で最古の木造洋館なのだとか。
洋風建築ですが、屋根の部分は和風の漆瓦葺で、土佐の伝統瓦葺技術が使われているそうです。
元々は警察署の建物(須崎警察署の佐川分署)。上の写真は、当時の警察官の制服(レプリカ)です。
その後私設図書館や博物館として活用され、移設を繰り返しながら保存されたのち、当初の地へ再移転されました。
昔の警察署はお洒落だったのですね! というか、当時最先端の建築様式にして、人々に政府の権力を思い知らせたのでしょうか。
バルコニーからの「酒蔵の道」の眺めもいいですね。
名教館も見えました。
三笠宮様が佐川町に来られた時は、休憩室として2階の部屋を利用されたのだとか。きっとバルコニーから見える佐川町の景色を楽しまれたことでしょう。
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