前回、高知城に残る山内一豊夫妻の像についてご紹介しましたが
今回は幕末の土佐で活躍した人々で、高知城にゆかりのある人々をご紹介しましょう。
藩政改革を行った野中兼山
最初に紹介するのは、土佐藩家老であり優れた儒学者でもあった野中兼山です。
土佐藩2代藩主・山内忠義(一豊の弟の子=甥)から藩政改革を命じられ、堤防を建設したり平野部を開拓することで米を増産し、森林資源の活用も図りました。
その他にも殖産興業政策を進め、専売制を強化して藩財政は好転。身分にとらわれず、下級武士の郷士階級からも人材を登用しました。
しかし相次ぐ土木工事や厳しい年貢の取り立て、専売制の強化、風紀の粛清は庶民の不満を招き、郷士階級を優遇しているとして、上士(上級紙族)の反発も起きました。
結局、3代藩主・忠豊(忠義の子)の時代に彼は謀反の疑いありとして罷免され、幽閉地で1664年に病没すると家族は高知から宿毛(すくも)に移されて幽閉され、男系が絶えるまで許されませんでした(この間、女児も結婚を許されませんでした)。
家族が許されたのは、1703年に最後の男子(六男)が自害してから。なんと40年もの間、幽閉されていたのです。
彼を激しく憎む人々もいれば、死後に神と崇めた人もおり(高知市の春野神社、兼山神社)、土木技術の功績は高く評価されています。
その兼山の屋敷跡は、追手門のすぐそば。
屋敷跡の石碑は「兼山堀」と呼ばれる堀に面していました。山内一豊や幕末の土佐の人々だけでなく、彼も土佐藩の歴史の中でとても大きな役割を果たしたと思います。もう少し有名になってもいいのにな。
山内容堂と板垣退助
続いては、幕末の土佐藩主・山内豊信(とよしげ)。隠居して名乗った「容堂」の方が有名でしょうか。
分家の出身だったため、高知城下で誕生。
土佐藩主の相次ぐ死と、後継者候補が病弱だったり幼少だったりで、分家の出ながら英明の噂がある彼が次期藩主に選ばれました。
詩作に優れ、武術の腕前も一流で、藩政改革を断行する一方、自らを「鯨海酔侯」と称すほどの大酒飲み。政治方針も尊王派と佐幕派の間を揺れ動き、明治維新後は役職に就くものの、旧家臣や領民身分だった人々に馴染めずに辞職してしまいます。そして酒の飲みすぎで脳血管障害を起こし、46歳で死去。
わがまま、美丈夫、豪放磊落などと評される容堂ですが、彼の詩書(複製)が本丸御殿(懐徳堂)上段の間に掲げられていました。
また、高知城三ノ丸には、容堂の侍医を勤めた楠正興(まさおき)を顕彰した石碑もあります。
後に土佐に戻って開業し、患者に慕われ後進の育成にも尽くしたのだとか。
また、容堂に仕えた土佐藩上士で、後に自由民権運動の指導者となる板垣退助の銅像も、この近くにありました。
この銅像も2代目で、初代は太平洋戦争で金属供出。台座が空になってしまったのを、戦後に有志が集まって再建したのだそうです。
朝の連続テレビ小説『らんまん』のモデルになった牧野富太郎には、自由民権運動に熱中した時期がありました。ドラマでも民権運動に熱中する人々が描かれるようですね。
現在の国会も、自由民権運動がなければ誕生していなかったわけで、それを考えれば龍馬と同じくらい、板垣退助も注目されてもいいのになと思いました。
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