2024年1月27日(土)、京都に行く機会があったので、NHK大河ドラマ『光る君へ』の主要舞台の1つである、平安時代の御所の跡を探してみました。
持ってる人・藤原兼家
今回ご紹介するのは、平安時代の御所で大活躍した藤原道長の父・兼家の屋敷である東三条殿(ひがしさんじょうどの)跡です。ドラマでも第1話から兼家の屋敷はたびたび登場していますが、この場所にあったのですね。
元々は道長の曽祖父であった関白藤原忠平の邸宅でしたが、孫の兼家が改築して自分の邸宅としました。兼家と正妻の時姫(受領階級=中流貴族出身)の間に生まれた長女・超子(ちょうし)が、花山天皇の父・冷泉天皇に入内したため、女御の里邸(実家)にふさわしい邸宅を求めたのかもしれません。
兼家の娘は、長女の超子(早死にしました)も次女の詮子(せんし)も入内して、しっかり皇子を産んでいます。そして兼家の孫は、2人が天皇になりました。その2人の天皇は、いずれもこの邸宅で誕生。
当時は関白や太政大臣になるよりも、天皇と身内関係(特に母方の祖父)になる方が権力への近道。懐妊や男子の誕生は、人間の力ではどうすることもできませんが、それをうまく実現させた兼家はまさに「持ってる人」でしょう。この運の良さは、末っ子の道長に最も強く引き継がれました。
東三条殿は長兄の道隆に相続されましたが、彼の死後、子供たちが道長との政争に敗れたため、屋敷は道長が相続。道長の主邸は土御門第なので、この屋敷は、彼の次女で三条天皇(超子が産んだ皇子)中宮妍子(けんし)の里邸となりました。
そんな東三条殿の案内板。
ちゃんと石碑もありました。
すぐ近くには、金運開運招福のパワースポットとして人気の御金(みかね)神社!
やはりこの辺りには、運が良くなる何かが潜んでいるのでしょうか。
東三条院となった詮子と弘徽殿女御
円融天皇に入内した兼家の次女・詮子の人生はなかなかドラマチック。
天皇の生活の場である清涼殿に一番近く、後宮で最も格が高い弘徽殿(こきでん)は
詮子よりも早く入内した関白藤原頼忠の娘・遵子(じゅんし ドラマでは「のぶこ」)に与えられ、遵子は中宮(皇后の別名)になりました(ちなみに花山天皇が即位すると、藤原忯子が弘徽殿に住み、弘徽殿女御になります)。
詮子は一体、どの殿舎を与えられたのかな?と調べてみたら、梅壺でした。梅壺は先日訪れていなかった場所ですが、幸いグーグルマップに跡地が掲載されているので、清涼殿の場所と比較してみると
桐壺ほど遠くはないですが、徒歩1分でした。やはり微妙に遠い。せっかく天皇のたった一人の皇子を産んだのに、詮子は正式の后である中宮にもなれず(史実では天皇にあそこまで憎まれていないと思うのですが)、紫式部は彼女を、『源氏物語』で光源氏とその母を徹底的に敵視する弘徽殿女御(光源氏の兄・朱雀帝の母后)のモデルにしたと思われます。
『源氏物語』の弘徽殿女御と同様、詮子も息子の一条天皇が即位すると「皇太后」となり、政治にも介入するようになります。道長もこの姉の力で、道隆の嫡子・伊周(これちか)との政争に勝利できました。
譲位して出家していた円融法皇が亡くなると、詮子は出家しました。普通は出家すると、皇太后としての待遇は廃止されますが、この時初めて詮子に「東三条院」の称号が送られます。彼女は譲位した太上天皇(上皇)に準ずる待遇が与えられる、日本初の「女院」(にょいん)となったのです。そして出家前と同様、政治に関与することもありました。
「東三条院」の院号は、彼女が長年暮らしていたこの屋敷から命名されました。でも御所で出家した彼女は御所退出後、東三条殿には戻らず、道長の土御門邸を御所にしています。また道長も最後まで詮子に尽くし、彼女の供養を両親と同様に、心を込めて行いました。本当に仲のいい姉弟です。
一昨年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』と同様、今回も主人公とその姉の関係が、ドラマを大いに盛り上げそうですね。
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