『光る君へ』ゆかりの京都巡り7  平安時代の御所を訪ねて(後編) 歩いてわかる後宮格差

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2024年1月27日(土)、京都に行く機会があったので、NHK大河ドラマ『光る君へ』の主要舞台の1つである、平安時代の御所の跡を探してみました。

清涼殿跡よりも目立っていた弘徽殿跡

大極殿(だいごくでん)、紫宸殿(ししんでん)と平安時代の御所の建物跡を見ていきましたが

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最後にご紹介するのは紫宸殿の西にある、天皇が日常生活を送る清涼殿(せいりょうでん)。平安時代中期の摂関政治の頃になると、日常の政務や儀式も、清涼殿で行われるようになっていきます。

清涼殿跡は、紫宸殿に比べればまだ探しやすかったのですが、それよりも早く見つかったのが、この石碑。

弘徽殿(こきでん)跡と書かれています(よく見ると右上に小さな字で「この北」と書かれていました)。

『源氏物語』で、桐壺帝の長男(後の朱雀帝)を産んだけれど帝の愛を得られず、帝の寵愛を独占した桐壺更衣(彼女には多分独占する意志や野望はなかったと思うのですが)やその子・光源氏を徹底的に敵視する右大臣の娘・弘徽殿女御(後に大后)が住んでいた場所としてよく知られています。

案内板もありました。そしてその向かい側には

清涼殿の案内板もあったのですが

今は民家になっており(電信柱の下にある鳥居がいい感じ!)、紫宸殿同様、石碑はありませんでした。石碑の有無はどうやって決まるのでしょうか。ちょっと謎です。

後宮変じて京町屋の宿となる

弘徽殿跡と同じ道沿いには

同じく後宮の殿舎である承香殿(じょうきょうでん)跡もありました。弘徽殿に次ぐ格式の高い殿舎で

『源氏物語』では、一番最後に登場する今上(きんじょう)帝(光源氏の娘・明石の姫君を中宮とする)の生母が、朱雀帝の時の承香殿女御という設定でした。

ところで気になったのが、弘徽殿や承香殿の跡地一帯の建物。どうやら伝統的な京町屋を、一棟貸切の宿泊施設として再生させたようです。「京町屋の宿」というのは聞いたことはあるのですが、実際に見るのは初めてかも。

天皇の后妃たちが暮らしていた場所に泊まるというのは、どんな気分かな?

やはり桐壺は遠かった

弘徽殿は天皇が住む清涼殿のすぐ北にあり、天皇のもとに行くのも便利なのですが、光源氏の母・桐壺更衣の住んでいた桐壺は、清涼殿から一番遠くて不便とあります。幸いグーグルマップで桐壺跡があることも分かったので、実際に行ってみることにしました。

桐壺、正式名淑景舎(しげいしゃ)と清涼殿との所要時間は3分ほどなのですが、夫婦の部屋が徒歩3分離れているというのは、やはり少々問題があると言わざるを得ません。

おまけに清涼殿に向かう際は、ほかの殿舎の前を通る渡り廊下を通らねばならないなど、いじめが発生しやすい構造になっています。これも問題。誰がどんな意図で、こんな設計にしたのかな?

なお、紫式部はこの桐壺を光源氏や明石の姫君の部屋としています。桐壺更衣の孫娘となる明石の姫君は、この部屋に住んで中宮になったのですから、まさに桐壺更衣のリベンジ達成というところかな。

『桐壺』は、いつ執筆されたのか

ところで紫式部は、この後宮の構造をどこで知って、光源氏の母の部屋を「桐壺」に決めたのでしょうか?

後宮の建物の配置や、桐壺の致命的な不便さなどは、宮中に仕える女房でない女性でも知っている一般常識だったのかな? もしそうでないとしたなら、源氏物語最初の巻「桐壺」は、紫式部が宮仕えをしてから(後宮の情報をある程度入手してから)書かれたことになります。

『源氏物語』が、どの巻から書かれたか。いろいろな説がありますが、もし桐壺の不便さが一般常識ではないのなら、紫式部と同じ受領(ずりょう=地方長官)階級の女性(中下級貴族)と光源氏の恋愛を描く『帚木(ははきぎ)』~『夕顔』から先に書かれたかもしれません。

藤原道長が紫式部を彰子の女房としてスカウトし、大長編物語の執筆を依頼したきっかけは、評判の物語の作者だからだったはず。その物語は『源氏物語』なのか、それとも全く違うものだったのかな? 果たして大河ドラマでは、どう描かれるのでしょうか。楽しみですね。

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