老眼になる前に出家したかった紫式部
今年のNHK大河ドラマ『光る君へ』の主人公は、『源氏物語』の作者として知られる紫式部。
彼女の生涯は、本名や生没年も含めわからないことばかり。『源氏物語』は何年に完成したのか、最後まで彼女が書いたのか、いつまで女房として藤原道長の長女・彰子に仕えたのか。そしてどんな晩年を送ったのかなど、全て記録には残っていません。
『紫式部日記』によれば、彼女は老眼になってお経が読みづらくなる前に出家したいと書いています。
紫式部が晩年暮らした?雲林院
そんな紫式部が、晩年過ごしたのではないかとされているのが、京都市北部の「紫野」と呼ばれるエリア。
『源氏物語』や『大鏡』など平安古典文学によく登場する「雲林院(うりんいん)」という寺院が、紫野にありました。元々は狩猟地であった紫野に建てられた離宮でしたが、百人一首にも登場する僧正遍照に託され、官立寺院になったのです。昨年、施設か寺域を区画したとみられる溝跡が出土したそうです(詳しくはこちらをご覧ください)。
もしかしたら、晩年の紫式部がこの辺りで過ごしたのかな?と思って立ち寄りました。
当時は天台宗の大寺院でしたが、室町時代からは臨済宗大徳寺の塔頭(たっちゅう=境内にある小寺院)の1つとなり、応仁の乱で焼失後は、さらに小さくなったとか。
現在は、十一面千手観音菩薩像を祀る観音堂が残っています。
境内には、僧正遍照の百人一首に採用された有名な歌「天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ」が刻まれた石碑もありました。『光る君へ』で感動的に美しかった、五節の舞姫を見て詠んだ歌です。普通は居眠りしないと思うのだけれど、雅楽の音色に三郎道長は眠気を誘われたのでしょうか。
紫雲弁財天という、美しくありがたい名前の弁天様も祀られていました。
出家後の紫式部が書いた?『宇治十帖』
亡き瀬戸内寂聴さんの説では、紫式部は出家した後に『源氏物語』の終盤(第3部)に当たる『宇治十帖』を書いたのではとのこと(寂聴さんのインタビュー記事はこちら)。
その理由として、『宇治十帖』に最後に登場するヒロイン・浮舟が出家するシーンがとても詳しくリアルに書かれていることを挙げておられました(それまでの物語の出家シーンと全然違うそう)。
浮舟は田舎育ちで教養もあまりなく、少し頼りなげな女性ですが、出家すると毅然として、恋人の薫(光源氏の妻・女三宮が柏木と密通して産んだ子)からの恋文を拒絶し、自立していきます。出家することで心の救いを得ようとする女性と、それと対照的に、恋愛や嫉妬から逃れられない男性(薫)を描いて、長い長い『源氏物語』は幕を閉じます。
寂聴さんは、紫式部が仕えていた彰子(道長の長女)が皇子を2人も産むと、紫式部や『源氏物語』は、道長にとって、もう必要とされなくなったと言っておられました。確かにそうかもしれません。
元々紫式部に要求された『源氏物語』は、ハッピーエンドで終わる物語(若紫=彰子?)だったという説もあります。でも紫式部は、ハッピーエンド=きれい事では人生や恋愛は描き尽くせないとして、道長の意志とは無関係に、1人の作家として、物語の悲劇的な第2部(光源氏と女三宮との結婚から光源氏の死まで)第3部(『宇治十帖』)を書いたのかもしれませんね。この辺りで出家して仏道修行しながら、『宇治十帖』を書いていたのかな。
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