紫野にある「紫式部産湯の井戸」
前回は、紫式部が晩年を過ごしたとも言われる京都市紫野にある、雲林院(うりんいん)をご紹介しました。
後で知ったのですが、平安時代には雲林院境内だった大徳寺の真珠庵には、「紫式部産湯の井戸」があるのだとか。真珠庵は一休宗純ゆかりの寺院ですが、非公開寺院です。
特別公開もありますが、井戸は公開されているのかな? 大河ドラマと連動して、公開してくれたらありがたいのですが。
紫式部のゆかりの地としては、彼女の屋敷があったという廬山寺がよく知られています。
当時は婿入婚だったから、紫式部は母の家で誕生したと考えるのが一般的。とすると、紫野に母の家があったのでしょうか。紫式部の母方の祖父は、藤原為信(ためのぶ)という、受領(ずりょう)=地方長官などを勤めた中流貴族。でも屋敷の場所まではよくわかりません。幼いころに母を亡くしたため、紫式部ら子供たちは、父親の屋敷(今の廬山寺)に引き取られていったのでしょうか。
『紫式部日記』を読んでも、引っ越しをしたという話は全く出てこないので、彼女の記憶に残らないほど幼い時の話でしょうか(弟を産んですぐ母死去?) 紫式部の人生は、本当にわからないことが多いです。
地獄に堕ちた?紫式部
この紫野エリアには、紫式部の墓所もあります。
堀川通に面しており、島津製作所の紫野工場が隣接しているという、なかなかわかりやすい場所にありました。
入口には石碑も立っています。右の石碑の周辺には、その名も「ムラサキシキブ」という植物が植えられ、初夏から夏に、紫色の花や実をつけるらしいです。写真をよくよく見ると、この時も咲いているのですが、うかつなことに花には気づきませんでした。
紫式部のお墓(左)と、それより100年以上前に亡くなっている小野篁(おののたかむら)のお墓が、仲良く並んでいるのにびっくりしたからです。
小野篁と言えば、京都市東山区の六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)ゆかりの人物で、昼は朝廷で働き、夜は閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたというすごい人物(ちょっと働きすぎ)。
死後も冥界での仕事は続けていたようで、時には閻魔大王にとりなして死者を蘇生させたり、地獄から救ったりしたそうです。彼が救った死者の1人が、何と紫式部でした。
紫式部については平安時代から、愛欲の世界を描いた偽りの物語(=嘘をついた)で多くの人々を惑わした罪により、地獄に堕ちたという説と、あんな素晴らしい物語を書いたのだから、観音菩薩の化身に違いないとする説が入り乱れていたようです。
『源氏物語』愛好者としては、作者が地獄に堕ちるのは悲しいので、「源氏供養」と称する法会が盛んに営まれたのだとか。閻魔大王に意見ができる小野篁なら、彼女を救ってあげられたはずという人々の希望が、この墓所なのでしょう。
ここから少し離れた場所ですが、小野篁が閻魔大王像を祀ったのが起源という上京区の引接寺(いんじょうじ)=千本ゑんま堂にも、紫式部像や供養塔がありました。小野篁と紫式部の関係が、ここにも表れていますね。
供養塔は室町時代のもので、重要文化財です。
余談ですが紫野エリアには20年ほど前から「紫式部通り会」が結成され、地域を盛り上げるための活動や、紫野の案内ツアーなどを行っているとか。紫野には紫式部だけでなく、牛若丸や母の常盤(ときわ)御前ゆかりの場所もあり、地元の人に案内してもらうと、色々な話が聞けるのではないでしょうか。
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