平和な時代ならではの、高田城の特徴
2024年3月23日(土)、初めて新潟県上越市の高田城址公園(日本三大夜桜の1つ)を訪れた私たち。冷たい雨が降りしきり、桜の「さ」の字もなかったのですが
雨宿りも兼ねて、高田城三重櫓(さんじゅうやぐら)に入ることにしました。
天守閣代わりに建てられた三重櫓でしたが、1870(明治3)年に焼失。現在の三重櫓は、1993(平成5)年に再建されたもの。
三重櫓の建つ場所などをよく見てみると、全く石垣がありません。三重櫓の展示コーナーでも紹介されていましたが、高田城は土塁だけで、石垣のない城でした。
平和な時代に築かれたため、戦争のためというよりは、権威や政治の中心という役割が城に求められていた時代。大坂冬の陣直前に建設されたため、限られた時間に完成させねばならず、石材も乏しかったため石垣は省略されたのでしょう。
初代城主は家康の六男・松平忠輝
この高田城を築城したのは、徳川家康の六男・松平忠輝です。豊臣秀吉の死後、有力大名との関係を深めようとする家康の策謀により、伊達政宗の長女(母は正室の愛姫)・五郎八(いろは)姫と結婚したため、高田城の縄張り(設計)や工事の総監督は、舅の伊達政宗が勤めました。下は高田城三重櫓のパンフレットに掲載された、松平忠輝像。
家康六男の城にふさわしく、大勢の大名が工事に参加する「天下普請」で、僅か4か月ほどで高田城は完成したというから驚きです。北陸の有力外様大名・加賀百万石の前田家を、家康次男の結城秀康(越前福井藩67万石)と共に封じる63万石の高田藩の中心にふさわしい城でした。
しかし忠輝は家康やその後を継いだ2代将軍・秀忠から疎まれ、領地を没収されてしまいます。伊達政宗や大久保長安(鉱山経営などに辣腕を振るい、強大な権勢を誇った代官)と近い関係だったため、警戒されたのでしょうか。
酒井家と榊原家が藩主になっていた
松平忠輝の改易(領地没収)後、高田城主となったのは酒井家次。
父はあの徳川四天王の1人・酒井忠次です。上野高崎10万石から移封しましたが、この時高田藩の石高は10万石になっていました。その後城主は何代か変わりますが、お家騒動などもあり、いつしか親藩や譜代大名の中で不始末をしでかした場合の懲罰的な転封先にもなってしまいました。
その1つの例が、榊原政岑(まさみね)。彼もあの徳川四天王の1人・榊原康政の子孫で、姫路藩主でした。しかし政岑は8代将軍徳川吉宗の倹約令を無視し、奇抜な服装をしたり、吉原で豪遊するなどしたため、強制隠居の上蟄居。家督を継いだ嫡子は、姫路藩から高田藩に転封となりました。
地震や火災に遭いながらも、このような歴史を見届けてきた高田城。内部の展示や
映像による解説などは、なかなか見ごたえがありました。
最上階からの眺め。天気がもっと良かったらいいのにな。
コメントを残す