『べらぼう』ゆかりの地+αの旅5  江東区霊巌寺にある松平定信の墓

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江東区「白河」 地名の由来はやはりあの人

2025年1月5日からスタートしたNHK大河ドラマ『べらぼう』は、主人公の蔦屋重三郎を中心に、江戸中期の様々な人物が登場します。昨年6月8日(土)に東京に行く機会があったので、ドラマに登場する人物ゆかりの地とその周辺を巡ってみることにしました。

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再び地下鉄に乗って江東区へ。都営大江戸線で月島駅から清澄白河(きよすみしらかわ)駅まで移動し、そこから徒歩で向かったのは、霊巌寺(れいがんじ)。

寛政の改革を推進し、蔦屋重三郎を弾圧することになる老中・松平定信の墓所がある寺院です。

元々は、3代将軍家光の時代に、日本橋付近の芦原を埋め立てて造られた霊巌島に建設されました。佃島や月島も埋め立て地。都市化が進むと、埋め立て地が増えるんですね。

ところが4代将軍家綱の時代に起きた、明暦の大火で延焼。その後防火対策を重視した江戸の都市改造計画の一環として、深川の地に移されました。

清澄白河駅の「白河」とは、この辺りの町名なのですが、これは白河藩主出身の松平定信の墓所がこの地にあるため、昭和の初めに「白河」と名付けられたのだとか。

地名にまで影響を及ぼす松平定信(ドラマではまだ「賢丸(まさまる)さま」)、さすがです。

やっと見つけた、松平定信の墓

2年前の秋、長女と一緒に霊巌寺を訪れたことがありました。

その時は、子供の頃の法然上人=勢至丸(せいしまる)像や

銅造地蔵菩薩像は見ることができたものの

(もちろん本堂も)松平定信の墓所は、見つけることができませんでした。

今回は、気合を入れて探した甲斐あって、道標を発見し

無事に墓所にたどり着くことができました。

門が付いており、明らかに他の大名家の墓(今治藩主や膳所藩主の墓があるそうです)とは区別されています。

中には入れないのですが、中を覗いてみると、鳥居があります。

鳥居の奥にあったのが、松平定信の墓のようです。

8代将軍吉宗の孫として誕生した田安賢丸は、17歳で白河松平藩の養子となり、やがて「松平定信」と名乗ります。

天明の大飢饉や浅間山の大噴火、10代将軍家治の死で失脚した田沼意次に替わり、30歳で老中に就任し、「寛政の改革」を推し進めた松平定信ですが、やがて11代将軍の実父・一橋治済(ひとつばし はるさだ)の称号を巡って将軍と対立し、36歳で辞職。

その後も白河藩主として政務を執りますが、53歳で長男に家督を譲り、72歳で亡くなりました。

渋沢栄一も尊敬した松平定信

松平定信の墓の前には、「江東区渋沢栄一ゆかりの地」という案内板もありました。

「寛政の改革」の政策の1つに、「七分積金(しちぶつみきん)」があります。当時町人が積み立てていた町入用(まちいりよう 上下水道管理、祭礼、火消し道具修繕費など)を節約し、節約分の七分(70%)を積み立てさせました。

この積立金は1872(明治5)年に東京府に引き継がれ、渋沢栄一にその運営が任されました。財源が苦しい明治政府もこの積立金を狙う中、渋沢は江戸の町人が積み立てた金は東京都のために使うべきとし、道路や橋の建設、ガス灯設置、商法講習所(後の一橋大学)設立、そして貧民救済施設「養育院」創設に充てたのです。

渋沢栄一は松平定信を顕彰し、伝記も編纂。89歳だった1929(昭和4)年には、松平定信百年忌を霊巌寺で挙行しています。蔦屋重三郎にとっては厄介な松平定信でしたが、渋沢栄一にとっては、ありがたいスポンサーだったのでした。立場によって、印象も変わりますね。

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