土佐の小京都中村巡り4 土佐一條氏の中村御所と一條神社

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土佐一條氏と中村御所跡

2024年12月30日(月)今回の旅行最終日は、四万十市の中村を観光しました。

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中村は、「土佐の小京都」という愛称で知られています。その理由は、室町時代中期の関白・一條教房(のりふさ)が応仁の乱を避けて、この地に移ってきたからです。

当初は興福寺の僧侶だった弟を頼って奈良に避難したようですが、学者としても名高い父の一條兼良も避難してきたため、奈良の避難所を父に譲って一條家の荘園があった土佐国幡多庄(はたのしょう)に移り、中村に館(中村御所)を建てたのだとか。

その中村御所跡に建つのが、一條神社です。

従一位関白の教房と共に多くの公家や武士、職人などもこの地に移住したため、京都の文化が移入され、京都を模した碁盤の目状の街づくりや京都にちなんだ地名や寺社、行事(大文字送り火)などが多く残っており、まさに「小京都」ですね。

それにしても、京都御所は平地にあるのに、この中村御所は、階段の上なのです。一條家は丘(小山?)の上に住んでいたのかなと思っていたのですが(上の写真は、横から見た神社)

この説明書きによると、山の西側の麓一帯に私邸や政庁(土居)があったようです。戦国時代だし、見晴らしのいい高台に住んだ方が良かったのでしょう。

地元小学生の手作りパンフがここにも!

初詣の準備真っ最中の一條神社は、

私たちが昼食を摂った商店街のすぐ隣でした。

この地に土着した教房の子孫(土佐一條氏)は、戦国大名の長宗我部氏に追放されて滅びますが、

江戸時代になって、残された家臣たちが歴代当主の霊を祀る祠を建てたのが、この神社の起源。

神社の境内にあったのが、

地元の小学生が作った、シールラリーや

神社の解説案内。「いちじょこさん」と呼ばれて、今でも地元の人たちに親しまれている神社なのがよくわかりました。

神社の看板猫と御化粧の井戸

御朱印(500円)を頂くため社務所に行くと、とても可愛い猫の写真が目に飛び込んできました。

「岩合光昭の世界ネコ歩き」に登場した一條神社のチビという猫。神職さんに尋ねると、最近亡くなったとのこと。

でも二代目が、ちゃんといました。

岩合さんじゃないので、猫がこちらを向いてくれません。名前は何というのかな?

猫がいた場所の近くにあるのが「御化粧の井戸」。一條家が使った井戸のうち、現存する唯一の井戸で、女官や侍女たちが化粧の為使ったと伝わります。

この井戸枠は、一枚岩をくりぬいたもの。水も枯れていません(水深5mくらい)。女官たちがこの井戸を使っていたのだから、やはり一條家の屋敷は、この小高い場所にあったのだと納得しました。

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