中村城跡 東ノ城跡と南海地震記念碑
2024年12月30日(月)今回の旅行最終日は、四万十市の中村を観光しました。
次の目的地は、(今度こそ)中村城跡。土佐一條氏の家老・為松氏により築城されたのが始まりとされています。そのため、別名は「為松城」。
徒歩で15分とグーグルマップにありますが、為松山の上にあるため、もう少しかかりました。

幸徳秋水の墓の近くには、「一條鶴井公園」という素敵な公園。土佐一條氏の館の井戸が、この辺りにあったのかな?
やがて道は山道になり、人通りも少なくなります。この道で合っているのか不安になった時、「東ノ城跡」という石碑を発見!

一條氏の一門・西小路氏の持城と考えられています。

近くには、1946(昭和21年)に起きた南海大地震記念碑。高知県全体で670名の死者(中村では286名)、9名の行方不明者を出した大震災です。

震災からの復興の一翼を担った、当時の青年団指導者・兼松林檎郎(りんごろう)の顕彰碑もありました。被災地への救援物資運搬(青年団による人海戦術)や、被災した子供のための保育園創設などに尽力したとか。

隣接するのは、幕末に中村の足軽の家に生まれ、剣術・槍術・砲術を修行。中村で門弟1,000人を数え、土佐西部の勤皇党盟主ともなった、樋口真吉の記念碑でした。
為松公園と中村城跡
やっと標高90mの為末山の山頂へ。山というより、丘陵という方がふさわしいでしょうか。

この辺りは「為松公園」という公園になっていて、この看板に隣接して

「中村城跡」の石碑がいくつかありました。

かつて丘陵地には「東城」、「為松城」、「御城(詰)」、「今城」と呼ばれる4つの城郭が連立し、総称して「中村城」と呼ばれているのだとか。

ここに残っている石垣は、昭和40年代に発見されたもの。土佐一條氏の時代ではなく、江戸時代初期の1613年に、土佐中村藩2代藩主・山内政豊(一豊の甥)時代に、新たに中村城として修復された時のものと考えられています。しかしその2年後、元和の一国一城令により、中村城は廃城となってしまいました。


一国一城令は、戦いの施設である城を破壊することで、平和を目指したもの。廃城となった中村城跡には「平和の碑」がありました。

標高90mでも、ちゃんとここからは、中村平野や四万十川が一望できます。

公園の案内板によると、城跡らしく、春は桜の名所だとか。今は椿の季節ですが、春の景色はさぞ美しいのだろうと思いました。
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