江戸時代の通し矢がすさまじい
2025年5月22日(木)、京都国立博物館で開催中の特別展『日本、美のるつぼ―異文化交流の軌跡―』見学後、近くの三十三間堂を訪れました。三十三間堂では、今まで行ったことがなかった本堂の外側を、ぐるりと一周。
さて、三十三間堂と言えば有名なのが、成人の日前後に行われる弓道大会。新成人女性の参加者が、振袖袴姿で弓を射る姿は、1月中旬の風物詩として、よくニュース番組(特に関西エリアの)で取り上げられます(詳しくはこちら)。
この弓道大会(正しくは「「三十三間堂大的全国大会」)は、本堂西側の射距離60mの特設射場で矢を射るもの。20歳を迎えた弓道有段者や称号者が、全国から2,000人近く集まるそうです。

ここが、その会場。一般的にはこの行事は「通し矢」と呼ばれていますが、江戸時代の「通し矢」は全く違うもので、三十三間堂本堂の西側軒下(長さ約121m)を、南から北へ矢を射通す競技でした。今の大会の射距離の、2倍ほどありますね。ちなみに、現在の弓道「遠的競技」の射距離も60mです。
とくに有名な種目が、一昼夜に堂の南端から北端までの全長を射通した矢の数を競う「大矢数」。江戸時代前期に最盛期を迎え、特に尾張藩と紀州藩が藩の名誉を賭けて対決し、次々に記録も更新されたとか。121mの距離を射通すとなると、体力はもちろんのこと、弓矢などにも工夫が必要(弓は三十三間堂本堂裏手に展示されていました)。『べらぼう』に登場した弽(ゆがけ)という手袋も、「通し矢」で強弓を数多く引けるように、改良されたのだとか。

「通し矢」では、一昼夜の総矢数は1万を超え、雨あられと飛び来る矢から本堂を守るため、3代将軍徳川家光は鉄板を寄進しました。今でも本堂の柱や軒に、鉄板を見ることができます。

藩の名誉がかかっているとはいえ、過度の競技化には、当時も批判があったとか。柱や軒を守る鉄板を見ると、当時の過熱ぶりがよくわかりますね。
境内の外にある後白河天皇陵
今回どうしても行ってみたかったのが、三十三間堂のすぐ近くにある後白河天皇陵。この近くにあるとは知っていたのですが、なかなか探すことができなかったのです。
今回地図をよくよく見ると、参道が見つかりました。

以前は見落としていたのかな。

宮内庁によると、正式名は法住寺陵(ほうじゅうじのみささぎ)。後白河法皇によって建立された御所「法住寺殿」(その中に三十三間堂も含まれます)にちなんでいます。

源平争乱を生き抜き、66歳で崩御した後白河法皇は、法住寺法華堂に葬られました。平清盛や源頼朝と互角に渡り合って、天寿を全うしたのはすごい。

この陵墓を守っていたのが、今も陵墓に隣接する法住寺。今は陵墓と分離されていますが、「法住寺」と書かれた江戸時代の手水鉢が残されていました。

今回は行けなかった法住寺ですが、機会があれば拝観してみたいです。
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