ハーンも見た松江大橋と大橋川
2025年5月4日(日)午後、前日には訪れることができなかった、小泉八雲ゆかりの場所を訪れました。大雄寺(だいおうじ)や松江藩主の菩提所になっている月照寺を参拝し、
小泉八雲(この時はまだ帰化していなかったので、正確にはラフカディオ・ハーン)が日本で最初に英語教師として教鞭をとった島根県尋常中学校跡やカラコロ広場、最初に滞在した富田旅館跡(現在の大橋館)などを見て
松江大橋を渡りました。宍道湖から松江の市街地を横切って、中海へと流れ込む大橋川に架かっています。

橋の名前は、正式には「おほはし(大橋)」なのかな? バス停の名前も「大橋北詰」「大橋南詰」でした。

中海側の眺めです。白い船は宍道湖遊覧船の「はくちょうⅢ」号。宍道湖の遊覧を終えて、船着き場に戻るのかな。

そしてこちらが、宍道湖側。

日本百名橋にも選ばれている、美しい橋でした。ちなみにハーンが見た橋は、15代目の橋です。
2つの人柱伝説
松江大橋には、ハーンが最初に出版した『知られざる日本の面影』で紹介している人柱伝説がありました。

松江藩の初代藩主・堀尾吉晴が松江に来た時には、大橋川には「カラカラ橋」という、人ひとりがやっと通れる竹の橋が架かっていました。しかし松江城築城のためには、馬や荷車で資材を運び込む必要があり、より大きな橋が必要。
橋の工事が始まりましたが、洪水や軟弱な地盤に悩まされ、人柱を建てることになりました。翌日の朝一番に、マチのない袴を履いて、カラカラ橋を渡った男を人柱にすると決め、その日の朝一番に、その姿で橋を渡った足軽の源助が捕えられ、生きたまま箱の中に押し込められ、橋脚の下に埋められたのだとか。その甲斐あって橋は完成しましたが(初代の松江大橋)、源助が埋められた中央の橋脚は「源助柱」と呼ばれました。

松江大橋のたもとの源助公園には、源助柱記念碑が。堀尾吉晴の時代は、松江城にも人柱が立てられたという伝説がありますが、当時の技術の限界に挑戦した難工事だったという印象だったのでしょうか。
そしてもう1つ、今の松江大橋(17代目)を架ける工事の最中(1936年)、橋脚の下にいた現場監督の深田清技師が、落下物の為事故死しています。彼の胸像は第2脚に埋められ、当時の新聞で「昭和の源助」と報じられたそう。

源助柱の隣にあるのが、深田技師の追悼碑です。

公園にはもう1つ、不思議なものがありました。「大庭(おおば)の音のする石」(横たわっている長い石)で、打てば鐘のように響く石なのですが、一定の距離以上は動かせないという伝説があり、この石も松平の殿様(誰だろう?)が松江城に運び込もうとしたようですが、石が非常に重くなり、千人以上で動かそうとしても、大橋から先には動かなくなってしまい、ここに置かれているようです。
石の手前には、とても小さなお地蔵様?も祀られていました。橋の工事で犠牲になった人々への供養かもしれません。
今回の旅の最後の目的地が、松江大橋と源助公園。橋の形や周囲の建物は変わっても、ハーンが見た大橋川や宍道湖の面影は、まだ残っているのではないかなと思いながら、松江の町を後にしました。
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