若き豊臣兄弟が最も苦戦した城・三木城跡(中編)  上の丸公園で三木合戦を偲ぶ

スポンサーリンク



本丸跡の「かんかん井戸」

2025年4月、人気急上昇の桜の名所として紹介された兵庫県小野市の「おの桜づつみ回廊」に行く機会があったのですが、

人気急上昇のおの桜づつみ回廊  「逆さ桜」を狙うなら風のない早朝がベスト

2025年4月18日

その帰りに、NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』の主人公たちが苦戦した三木合戦の舞台・三木城跡(兵庫県三木市)を訪れることにしました。

若き豊臣兄弟が最も苦戦した城・三木城跡(前編)  地形を利用した堅城

2026年3月9日

本丸、二の丸を中心に多くの曲輪(くるわ)が存在した三木城の規模は、東西約600m、南北約700m(現在の三木市市街地部分も含む)もあったのですが、

現在は本丸跡周辺だけが「上の丸(うえのまる)公園」として残されています。

まず見えてきたのが、本丸跡に残る唯一の井戸「かんかん井戸」。中に石を投げこむと、「かんかん」という音がすることからの命名で、城外への抜け穴があったという伝説もあるのだとか。

口径3.6m。深さ約25mもある大きなかんかん井戸ですが、一体本丸には何人籠ったのかな? 三木城全体では、約7,500人が籠城したそうです。三木城主の別所氏は、播磨地方で最大の勢力を誇る一族だったので、別所氏が信長を裏切って毛利氏に味方すると、他の播磨地方の土着武士=国人(こくじん)衆や信長に敵対する一向宗門徒たちも家族と共に籠城しました。

7,500人分の膨大な兵糧は、三木城の支城(補助防衛拠点)が連携し、山間の道や加古川、城の側を流れる支流の美嚢(みのう)川を使って、海上の毛利水軍から補給されたそうです。

武将配置図で見る、三木城包囲戦

これに対して秀吉軍は、支城を1つ1つ攻略し

三木城の周囲に、付城(つけじろ)を約40ヶ所築き(現在でも遺構は20ヶ所現存)、付城と付城の間には土塁を設けて城を完全に包囲するという兵糧攻めを行いました。これで全てはうまくいくはずだったのですが

秀吉の北隣に陣を置いていた荒木村重が、戦線を離脱して居城の有岡城(兵庫県伊丹市)に戻り、織田信長に謀反を起こします。説得のため単身有岡城を訪れた小寺官兵衛(後の黒田官兵衛)は、地下牢に幽閉されてしまいました。

淡河城の戦いと三木合戦

荒木村重の謀反で、摂津の港から兵糧を六甲山の北側へ運び、三木城へ搬入する補給路が新たに完成。上の武将配置図で秀吉の隣にいる秀長が、この補給中継地点の丹生山を焼き討ちしたり、淡河(おうご)城(神戸市北区)を攻撃したのも、荒木村重の謀反が原因だったのですね。

知られざる神戸の史跡を巡る旅2  豊臣秀長軍を苦しめた淡河城 驚きの戦法とは

2026年2月27日

丹生山の焼き討ちや淡河城の攻略で、再び兵糧補給が困難となった三木城側は、毛利軍と共に出兵して兵糧を城に搬入しようとしますが、秀吉軍の防戦により失敗。秀長軍を驚きの戦法で苦しめた淡城城主の淡河定範も、この時討ち死にしたという説があります。もし三木合戦がなく、別所氏がすんなり織田方に与していたら、黒田官兵衛や淡河定範、もしかしたら荒木村重の運命も、全く違うものになっていたかもしれません。

スポンサーリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です