井伊直政と佐和山城
佐和山城主・石田三成は関ケ原の戦いで敗れ、徳川家康は小早川秀秋に佐和山城攻めを命じ、井伊直政も加わっていました。
1万5,000人の徳川軍に対し石田軍は2,800人。石田軍はよく戦ったけれど、落城してしまいました。
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翌年家康は、井伊直政を佐和山城に入れることを決めました。
遠江の井伊谷から上野の箕輪城(群馬県高崎市)、高崎城と居城を移していた直政は、それまでの12万石から6万石の加増を受け、18万石の領主として佐和山城に入ったのです。
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しかし佐和山城は石田方の必死の防戦があったばかりで、城の建造物は焼失し、焼け残った建造物を修理するのが精いっぱい。
家康の命令なので、直政は佐和山城に入ることは入ったのですが、この城を修理するより、西側の磯山に城を移築しようと考えていたようです。
ところがその翌年、井伊直政は関ケ原で受けた鉄砲傷がもとで、42歳の若さで亡くなりました。
直政の意思は老臣たちに受け継がれ、磯山ではなく彦根山(金亀山)に、新たに彦根城が造られることとなるのです。
龍潭寺から佐和山城跡へ
この佐和山城跡は、山麓にある井伊家の菩提寺・龍潭寺の所有ですが、龍潭寺の好意で、無料で入山することができました。
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関ケ原の戦いの後、佐和山に石田三成の亡霊が彷徨っているという噂もあり、龍潭寺はその鎮魂も兼ねていたのかもしれません。
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さて、佐和山城跡への登山はなかなか大変でした。詳細はこちらをご覧ください。服装・履き物には気を付けましょう。
佐和山城の資材はほとんど彦根城の資材とするため運び去られ、城は徹底的に破壊されたようですが、煙硝蔵跡や、本丸跡などの案内板がありました。
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石垣についてはほとんど彦根城に転用され、佐和山には全く石垣がないとのことです。
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彦根の井伊神社
佐和山の龍潭寺に隣接して、井伊神社がありました。
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あのご初代さま(井伊共保)誕生伝説のある遠江の井伊谷八幡宮(渭伊神社)から神霊を迎え、江戸時代後期の1842年にこの神社が創建されました。
大老を出す井伊家の神社にふさわしく、日光東照宮のような華麗な彩色が社殿には施されていたようです。
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今は修理のため、覆われてしまっていますが、隙間から見ることができました。
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なかなか修理の算段が付かず、このまま放置されているようですが、彦根城を世界遺産にという地元の動きもあり、修理のめども立つかもしれません。
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境内にあったこのエリア、何やらいわくありげな風情。
大坂夏の陣の際、井伊家家臣の安藤長三郎が豊臣方の名将・木村長門守重成を討ち取り、その首をススキに包んで持ち帰り、丁寧に葬りました。
そしてそのススキを、井伊神社に植えたのです。
これがそのススキの子孫。
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案内板の「たちばな会」というのは、井伊家の家紋の1つ、橘にちなんだ、井伊家藩士の子孫らで構成される会で、この井伊神社のお祭りも世話をしておられるようです。
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「お寺と神社と、その物がたり~第3部 桜の頃~ <最終話>井伊神社」(YOMIURI ONLINEサイトより)
新しい社殿はこの灯籠の裏のようです。彦根藩初代藩主直政・彦根藩2代藩主直孝も祀られていたようですが、ちゃんと拝めてなかったかも。
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それにしても神社の管理って、難しいものだとつくづく思いました。
神社本殿よりもはるかに目立っていた、このオベリスク風の石造物は、井伊直弼の嫡子・井伊直憲公顕彰碑。
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彦根藩は官軍に属するという方針を貫き、彦根藩知事のちに彦根県知事として、彦根の近代化に大いに貢献したそうです。
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井伊家の人々は、幕末から明治にかけても生き延びるために苦労したんだなと思われました。
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