『西郷どん』西郷隆盛ってどんな人? 西郷どん波瀾の生涯をざっくり紹介!

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大河ドラマで話題の西郷隆盛。「西郷さん」と親しまれ、上野の銅像も有名ですが、一体何をした人なのかイメージできますか?

同じ歴史上の有名人でも、織田信長とか厩戸皇子(聖徳太子)、徳川吉宗に比べると、西南戦争くらいしか浮かんでこない人も多いのでは?

そんなあなたのために、西郷さんの生涯をざっくりと紹介します。

時間のない人はタイトルを中心にささっと、時間のある人はじっくり読んでくださいね。

島津斉彬の手足となる

1828年、貧乏人で子沢山の薩摩藩下級藩士・西郷家の長男として、西郷隆盛は誕生しました。

近所の若者たちの間でリーダー的な存在となった彼は、16歳で農政や徴税を担当する役人となり、度重なる意見書が薩摩藩主・島津斉彬に認められて江戸勤務を命じられ、庭方役(にわかたやく)つまり政治工作員として、篤姫の輿入れ支度や一橋慶喜の将軍擁立工作に携わりました。

島津斉彬に心酔して懸命に働き、江戸や京都で華麗な人脈を作り上げましたが、残された家族の貧乏生活は続き、最初の妻(伊集院須賀)は実家に戻ってしまいます。

西郷の努力もむなしく、将軍後継者は徳川慶福(のち家茂と改名)となり、井伊直弼が大老に就任すると一橋派は失脚。

国元でこれを聞いた斉彬は、幕府に抗議すべく挙兵上京しようとしますが突然死去し、島津久光の子、忠義が新藩主となりました。

自殺未遂、そして奄美大島へ

京都で主君の死を知った西郷は殉死しようとしますが、同じく一橋派の清水寺僧侶・月照の説得で思いとどまります。

その月照が井伊直弼に狙われ、西郷は彼を薩摩に匿おうとしますが藩は月照を殺そうとしました。

絶望した西郷と月照は、日向へ向かう船から抱き合って身を投げ、月照は絶命。西郷は命を取り留めたものの薩摩藩は西郷を死んだことにするため、「菊池源吾」と改名して奄美大島へ赴任させます。

大切な人々に死に後れて荒れていた西郷でしたが、徐々に島の人々と心を通わせ、有力者・龍家の一族である愛加那(あいかな)と正式に結婚し、2人の子を儲けました。

沖永良部島へ流罪

1860年井伊直弼が暗殺されると、島津久光は公武合体政策を実現させるため挙兵上京を計画し、京都での政界工作のため西郷を呼び戻すことにしました。

しかし久光と対面した西郷は面と向かって反対し、これ以後2人の確執が始まります。

この後西郷は久光の命令に違反したため沖永良部島に遠島処分となり、2年間牢での生活を送りました。

第一次長州征討での活躍

この間薩摩藩は、薩英戦争の後イギリスに接近。また京都では、会津藩や長州藩などと共に政局を動かす存在となっていました。

1864年、幼馴染の大久保利通や家老の小松帯刀らの尽力で赦免された西郷は、京都で朝廷・幕府・諸藩との交渉(外交)を行い、禁門の変(蛤御門の変)では御所に攻め込んだ長州軍を撃退しました。

第一次長州征討の参謀に任命されますが、勝海舟の意見も参考に、武力衝突を回避することに成功。

翌年鹿児島に戻った西郷は、16歳年下の岩山糸と3度目の結婚をし、3人の子を儲けることになります。

また、欧米列強に対抗するため幕府だけに国政を任せるのではなく、有力な藩が連合する新たな政治体制(頂点として天皇を戴く)を志向する坂本龍馬らの尽力で、長州藩士の桂小五郎(のち木戸孝允と改名)と薩長同盟を締結しました。

大政奉還と王政復古

一方15代将軍に就任した徳川(一橋)慶喜は幕府中心の中央集権体制を目指したため、薩長両藩は武力討幕を決意。

西郷は将軍のお膝元である江戸をかく乱するため、江戸の薩摩藩邸を拠点に略奪暴行を行わせました。

土佐藩はこれに対して平和的政権交代で徳川家の存続を図り、1867年10月に慶喜は、大政を奉還します。

12月に西郷らは「王政復古の大号令」を発し、クーデタで朝廷内部の親徳川派を一掃。その夜の小御所会議で、徳川慶喜に内大臣辞任と領地返上を求める決議が行われました。

討幕軍の参謀

これに反発した慶喜は、翌年1月大坂から軍を率いて京を目指し、待ち受ける薩長両軍と戦闘になりますが、戦場に翻る錦の御旗を見て、戦意喪失した慶喜は部下を見捨てて江戸へ退去(鳥羽伏見の戦い)。

勢いに乗った薩長両軍=新政府軍(官軍)は江戸を目指し、西郷は東海道方面軍の参謀となりました。

江戸総攻撃を考えていた西郷でしたが、山岡鉄舟、勝海舟、天璋院(篤姫)らの嘆願で江戸城無血開城に合意。

彰義隊との戦闘に勝利した西郷は、その後北陸方面軍の司令官となり、降伏した庄内藩に寛大な処分をしたため、庄内藩士たちは西郷を慕いました。

征韓論争に敗れ辞職

弟・吉二郎が新潟で戦死し、自身の体調悪化もあって鹿児島に戻って島津忠義を補佐していた西郷は、岩倉具視や大久保利通の依頼で上京し、新政府の参議となって懸案の廃藩置県を断行しました。

この後、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通らを中心とする使節団が条約改正交渉のため欧米へ出発。

西郷は留守政府の中心として、徴兵令や地租改正、学校や銀行制度、太陽暦導入など改革を進めます。

政府の高官となっても親しみやすい人柄で、質素な生活を送る西郷は、庶民からも慕われました。

この頃朝鮮が明治政府と国交を結ばず、1873年には外務省の役人が侮辱されるなど、両国の関係が悪化。

朝鮮に出兵せよという意見もありましたが、西郷は自分が使者として朝鮮に行き、礼を尽くして談判したい。もし自分が殺されるような事態になったら堂々と出兵すればいい、と主張しました。

留守政府は西郷案を了承しますが、帰国した大久保利通らが頑として西郷の派遣に反対します。

戦争をする余裕は日本にはないとして(内治優先)、天皇を動かして西郷の派遣を無期延期としたため、西郷ら「征韓派」参議たちは辞職しました。

西南戦争での敗北

故郷の鹿児島に戻った西郷は、西郷を慕って鹿児島に戻った若者たちと共に農業に従事します。

彼らのために私学校が設立されて軍事教育が行われ、鹿児島は私学校党が牛耳る独立国状態になりました。

1876年に廃刀令や秩禄処分(武士への俸給停止)が断行されると、各地で不平士族の反乱が勃発します。

鹿児島の状況を憂慮した政府は偵察のため警察官を派遣しますが、西郷暗殺を計画したとして、両者の溝は深まります。

1877年、私学校の生徒が政府の火薬庫などを襲撃したのを契機に、鹿児島士族も蜂起(西南戦争場勃発)。

西郷は政府問罪のため大軍を率いて上京しますが、熊本城を攻略できず田原坂での激闘に敗れ、人吉、宮崎、延岡、鹿児島へと敗走し、政府軍から私学校を奪還するも、学校裏の城山に追い詰められます。

1877年9月24日、政府軍の総攻撃で2発の銃弾を浴びた西郷は、部下に介錯させ自決(享年49歳)。

西郷隆盛の人生を振り返って

西郷隆盛の49年の人生、いかがでしたか? 幕末・維新の英雄ですが、その最期は悲劇的でした。

彼は人生を効率よく生きたとは思えないし、失敗も散々やらかしましたが、強い正義感「無私」の精神、そして弱者へのいたわり、以上3点は学んでいきたい点だなと思いました。

西郷隆盛の魅力については、また別の機会に改めて述べることにしましょう。

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