大河ドラマで学び直せる日本史 薩摩切子と「意識高い」西郷どん(『西郷どん』第13話)

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篤姫輿入れ無事終了

『西郷どん』第13話では、安政の大地震の被害状況(震度6と推定される大地震)や、それに伴う篤姫の婚礼道具の作り直し(今まで2~3年かけて作っていたのを1年で作るのは大変なはず)、篤姫の輿入れなどが、割とさらっと描かれたようにも思えました。

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ようやく念願叶った斉彬さまが、西郷どんと2人きりでお酒を飲むときに使用したのが、薩摩切子(さつまきりこ)のグラスです。

薩摩切子とは

薩摩切子とは、幕末から明治初期に薩摩藩が製造したガラス細工(カットグラス)のこと。

長崎から伝来した海外の書物をもとに、江戸からガラス職人を呼び寄せてガラス瓶などを作らせ、この事業を始めるきっかけを作ったのは島津斉彬さま

ではなく、

斉彬さまと仲の悪い、鹿賀丈史さん演じる父の島津斉興(なりおき)だったのでした。

1846年のことで、まだ西郷どんは代官の補佐。

農民たちの生活を目の当たりにして意見書を書き続け、慕っていた赤山靭負(あかやまゆきえ)さまも元気な時期でした。

島津斉興はこういう西洋化事業に興味がなかったと思っていたので、ちょっと意外。

外国から購入すればとても高価なガラス製品を、自国で生産したいという気持ち、わかります!

島津斉彬と薩摩切子

1851年に島津斉彬が薩摩藩主に就任すると、彼はそれまで計画していた西洋式の近代工場群の建築に着手しました。

これらは「集成館」と呼ばれ、世界遺産にも認定されています。

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集成館では反射炉による製鉄、それを用いた大砲や武器弾薬の製造、造船事業などが行われたことがよく知られています。

迫りくる西洋列強から日本を守るための海防強化を、斉彬さまは強く意識していました。

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しかし集成館では軍事産業のほかにも、紡績や印刷、製薬や食品製造などが行われており、薩摩切子の製造も、集成館事業の中心の1つでした。

1858年には、100人以上が集成館の薩摩切子製造工場で働いていたそうです。

斉彬さまはこの薩摩切子を愛好し、大名への贈答品や篤姫の輿入れの品にもなったとか。

きっと「篤姫を将軍家御台所にしてください」と、大奥やあちこちの大名家にプレゼントしていたのでしょう。

カットグラスだけでなく、瓶や板ガラスなども製造されていたそうです。

「意識高い系」の西郷どん

さて、薩摩切子製造だけに限らず、集成館事業には莫大な費用が掛かっていました。

これが「蘭癖(らんぺき=西洋かぶれ)」の斉彬さまを藩主にしてはならない!藩主にすれば薩摩藩は経済危機に陥ってしまう!という一派を形成し、お由羅騒動という内紛を生んだのでした。

めでたく藩主となり、集成館事業を進める「名君」斉彬さまですが、その事業の資金は、薩摩や奄美・琉球王国から収奪した年貢や献上品。

富国強兵政策の陰で、多くの農民たちが苦しんでいました。

一国を動かそうとする斉彬さまのグローバルな視野には、どこまで彼らのことが見えていたでしょうか。

斉彬さまに心酔している西郷どんは、篤姫の輿入れ道具や品川での接待費に、どれほど薩摩藩の年貢が使われているか、気が付いていたのでしょうか。

家近良樹氏の著作『西郷隆盛 維新150年目の真実』にも書かれていますが、若いころの西郷どんは、直情径行型で、はっきりと断定口調でものを言い、しばしば「上から目線」だったと書かれています。

江戸に出て、憧れの島津斉彬さまに信頼され、藤田東湖や橋本左内ら当時一流の人物と交流を深めていく西郷どんは、薩摩藩の誇る有能な人材でしたが、傲慢な「意識高い系」の人物だったのです。

こんな西郷どんが久々に帰郷したら、そりゃ家族や親友の大久保さんとうまくいかないのは当然でしょう。

グローバルな視点とローカルな視点

薩摩に残っていた西郷どんの家族や友人たちは、斉彬さまから命じられた西郷どんの秘密の使命など、理解できるはずもなく、素直な感情や好奇心であれこれ西郷どんを質問攻めにし、彼から一喝されてしまいます。

江戸に出て、グローバルな視野を持つと、どうしても国家のためを考えてしまう。

これは後年、大久保利通がたどる道です。

大久保利通は、故郷の薩摩藩よりも国家を優先させたとされ、今も鹿児島県では人気がありません。

逆に西郷隆盛は、東京の新政府を辞職して故郷に帰り、西南戦争で薩摩士族とともに殉じたとして、鹿児島では特に絶大な人気を誇っています。

でも、もし島津斉彬さまが80歳、90歳もの長命を保ち、富国強兵をどんどん進めていけば、斉彬さまや西郷どんが、のちの大久保利通と同じような立場になっていたのです。

グローバルな視点とローカルな視点を組み合わせていくことの難しさを、彼らの人生は教えてくれます。

でもこの2つの視点は全く共存できないわけではない。

西郷さんと大久保さんが、西南戦争直前であっても、2人きりで話せばわかりあえたとお互い信じていたように、対立する視点を持っていても、お互い納得いくまで話し合えば、きっとWin-Winの関係は築けていくと思います。

過去の歴史から学べる点は、たくさんあると思えました。

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