『西郷どん』ゆかりの地を訪ねて 島津斉彬を祀る照国神社

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2017年4月2日(日)、島津家別邸・仙厳園(せんがんえん)と隣接する尚古集成館を訪ねた後、島津斉彬ゆかりの照国神社を訪れました。

『西郷どん』ゆかりの地を訪ねて 島津家別邸・仙厳園3 薩摩の特産品と尚古集成館

2018年12月23日

『西郷どん』ゆかりの地を訪ねて 島津家別邸・仙厳園2 磯御殿の庭園と猫神さま(猫神神社)

2018年12月23日

『西郷どん』ゆかりの地を訪ねて 島津家別邸・仙厳園1 反射炉跡と示現流展示室

2018年12月23日

照国神社とは

照国神社は、照国大明神となった薩摩藩主・島津斉彬を祭神としています。

1858年に斉彬が亡くなった後、その遺志を継いだ弟の島津久光と、甥(久光の子)であり斉彬の養子となって次期藩主となった島津忠義によって、1862年に斉彬を祀る土地が選定されます。

その翌年、孝明天皇から「照国大明神」の神号授与を受けて祠が造られ、1864年に、それまで東照宮(徳川家康が祭神)が建っていた場所に社殿を造営し、照国神社と称しました。

1864年と言えば、池田屋事件や禁門の変が勃発し、四国艦隊下関砲撃事件も起こった年。

薩摩藩が、徳川独裁ではなく、雄藩連合による道を模索している時期でした。

現在では、鹿児島市の総氏神様として、多くの人から崇敬を集めています。

とても立派な神社で、鳥居も社殿も大きく、壮麗でした。

祭神の島津斉彬

島津斉彬は幼少時より学問を好み、蘭学をはじめ多方面に業績を残し、開明的な考えと知識を持ち、当時海外の情勢に最も詳しい大名でした。

国の内外多事多難な前途を洞察し、その対策として積極的な西欧文明の導入による集成館事業を展開します。

反射炉設置、大砲製造、蒸気船建造、洋式紡績工場開設、日章旗制定等、多くの業績を残し、国力増強と殖産興業により、人々の生活向上と、外国の勢力に左右されない国の安定を図りました。

やがて彼の遺志を継いだ西郷隆盛らが、彼の死後、戊辰戦争となって幕府を倒すことになるのです。

照国神社境内に、戊辰戦争の戦士顕彰碑もありました。

神社の廻廊で学ぶ島津斉彬の事績

照国神社の廻廊には、薩摩藩や島津斉彬の歴史について、パネル写真を多用した丁寧な解説展示がありました。

ちょっとした博物館かもしれません。

大航海時代の薩摩と海外との関りについても紹介されています。

あのフランシスコ=ザビエルが最初に上陸したのも薩摩の坊津。

島津貴久は、のちに禁教に傾いたためザビエルは薩摩を去って京に向かいました。上の写真は鹿児島市のザビエル公園。

ザビエルと、布教を助けた日本人信者のヤジローとベルナルドの像があります。

島津斉彬に大きな影響を与えたのが、曽祖父の島津重豪(しげひで)。西洋文化に強い興味関心があり、時折オランダ語を交えてシーボルトに質問しました。上の写真は重豪の書いたローマ字です。

下は島津斉彬の写真。撮影したのは斉彬本人です。1857年9月17日に撮影されたこの写真は、日本人が最初に撮影した、記念すべき写真なのだとか(重要文化財)。

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16歳で母を亡くした斉彬が、心のよりどころにした「日新公いろは歌」。島津家中興の祖・島津忠良(島津義弘の祖父)が作った「郷中(ごちゅう)教育」の基本ともなった歌です。

世界に目を向けた斉彬は、アヘン戦争にも関心を示します。

列強の圧力や富国強兵の必要性を感じた斉彬は、集成館事業に着手。

国産の大砲を鋳造し、大砲を載せた日本初の西洋式軍艦が「昇平丸」を造って幕府に献上。

この船には、初めて日本の総船印として「日の丸」が掲げられました。

斉彬の父・島津斉興(なりおき)の時代に始まった薩摩切子の製造を盛んにしたのも斉彬でした。

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斉彬の死後も、その遺志は受け継がれていくわけです。

もし斉彬が50歳(満49歳)というまだ若い年齢で突然死することがなかったら、(安政の大獄の危機はあったけれど)日本の歴史はどんな風になっていたのでしょうか。倒幕戦争はあったかな?

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