先日、前回も紹介した『西郷隆盛維新150年目の真実』の著者である、大阪経済大学客員教授の家近良樹先生の講演を聞く機会がありました。
その時お話しされていたのが、家近先生には徳川(一橋)慶喜に関する著書も多数おありなのに、慶喜は人気がないから著書が売れない、西郷隆盛は人気者だから著書が売れるという、不都合な?真実。
その時思いました。どうして徳川慶喜は、こんなに嫌われてしまったのだろう?
その原因を探っていくと、彼の父親にもかなり原因があるとわかりました。
徳川斉昭と井伊直弼 最大の対立点は
徳川慶喜は、水戸藩主・徳川斉昭の七男として生まれました。
父の斉昭は水戸藩の藩政改革を成功させ、列強接近に危機感を持って海防や軍事力強化に努めました。
聡明だった斉昭は、尊王思想や国学・神道などを融合させた水戸学にも傾倒し、神道は重視するものの仏教寺院は抑圧し、寺院の鐘や仏像を溶かして大砲を鋳造するなど過激な一面も。
この仏教弾圧を罪に問われて藩主の座を退きますが、斉昭の改革を支持する勢力も多く、やがて藩政に関与することを許されました。
1853年ペリー来航に際し、老中首座の阿部正弘の要請で海防参与として、本来なら幕政に関与しない親藩大名の立場を越えて発言力を強めていきます。
しかし水戸学の立場を貫く徳川斉昭の意見は、常に強硬な攘夷論。この点が、島津斉彬や阿部正弘とは大きく違うところです。
阿部正弘が死去し、老中首座に堀田正睦(ほったまさよし)が就任すると、開国派の堀田正睦や井伊直弼と激しく対立。
井伊直弼にしてみると、親藩大名の立場をわきまえず幕政に口を出し、自分たちの政策を邪魔しにかかる徳川斉昭が、万が一将軍の実父になるなんて、考えるのもいまいましい。
今までの外交路線はどうなる!
攘夷論を振り回して、軽々しく対外戦争をするのか?!
その結果敗北して、幕府を滅ぼすつもりか?! そんな危機感があったはず。
井伊直政の時代から、徳川家を支えてきた井伊家の人間には、徳川斉昭のやり方は絶対に許せないものだったでしょう。
セクハラ親父の徳川斉昭 女性陣から総スカン
さて先日来、責任ある立場にある男性のお歴々が、女性問題やセクハラ問題で辞任に追い込まれ、今も大きな社会問題になっています。
実は徳川斉昭も、かなりひどいセクハラ問題、女性問題で嫌われていたのです。
彼は女好きで、絶対に手を出してはいけない女性(兄の正室付きの上臈=奥女中や、息子の正室)に手を出したといわれ、長男の正室はそれを苦にして自害したという噂まで流れました。
大奥の女性たちに対してもセクハラ発言を繰り返し、さらに大奥に関する費用を削減する動きを見せたり、大奥の女性たちが信仰している仏教寺院にも批判的で、大奥の女性たちから忌み嫌われていたのです。
将軍の実父になると、このセクハラ親父が実父の特権を利用?して、大奥に乗り込んできてやりたい放題するのではないか?
大奥の風紀が乱れてしまう!
或いは、男子禁制の大奥で気を遣う仕事をしている女性たちの、数少ない楽しみである買い物や寺院参詣などの楽しみまで、奪うつもりなのか?!
許せない!
と、まぁこんな事情で、将軍徳川家定の生母である本寿院や、大奥のトップ・将軍付御年寄の瀧山(たきやま)以下、大奥の女性たちは一橋慶喜を将軍にするのに大反対!
これで大奥の篤姫は、かなり苦しい立場に追い込まれていくのでした。
人は論理ではなく、感情で動く
徳川斉昭の生涯を調べると、頭脳明晰で武術にも堪能、ぜいたくを嫌い実行力や決断力にも富み、礼儀作法にも厳しいなど、「名君」としての条件をよく兼ね備えているように思えます。
しかしその一面で多くの敵対者を作ってしまい、もし一橋慶喜が彼の子供でなければ、慶喜は14代将軍に就任できたかもしれないなどと思ってしまいます。
よくよく冷静になって考えてみれば、難局を抱える幕府には、英邁で年長の将軍が望ましい。
でもあの人だけは嫌!と感情が拒絶すると、人は別の選択をするものです。
全体としては能力が高い人だったというのは間違っていないだろう。でもセクハラするなんて許せない!
という今の風潮と同じですね。
彼らが失敗したのは、感情の力を過小評価したためでしょう。
今の日本や諸外国の政治情勢を見ても、理性よりも感情が、世の中を動かしているように思えます。
「自分は正しいんだ!」と主張する、あるいは合理性や論理だけを重視するのではなく、人の感情にもしっかり配慮することが重要なのではないでしょうか。
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