奇行で有名な徳川家定
このブログでは、篤姫について以前紹介しましたが、今日は彼女が嫁いだ徳川家定を紹介します。
前回(第14話)で篤姫の願いを聞き入れ、一橋慶喜を将軍後継者にした13代将軍・徳川家定。
家定は病弱で、30歳を過ぎても「走る格好が面白い」と江戸城の庭でガチョウを追い回して遊んでいたという記録があり、精神的な発達が遅れていた、或いは脳性麻痺だったという説もある人物。
10年前の大河ドラマ『篤姫』では、堺雅人さんがとても素敵に演じておられ、暗愚のように見えて実は・・という設定でした(このドラマでも、囲碁が重要な場面で使われていたと記憶しています)。
『西郷どん』の中でも、家定と篤姫が心を通わせていましたが、実際はどうだったのでしょうか。
篤姫のライバル! 年上の側室お志賀の方
徳川家定には、篤姫の輿入れ前から、旗本の娘であるお志賀の方という年上の側室がいました。
お志賀の方は、居間の掃除や高級女中詰所の雑用係である「お三(さん)の間(ま)」として大奥に奉公しましたが、大奥女中の中から家格や容姿の良いものが御年寄(老中に匹敵する、大奥最高の権力者)の推挙により選ばれる「将軍付き御中臈(おちゅうろう)」に取り立てられました。
この御中臈は定員8名で、将軍は主に「将軍付き御中臈」から側室を選びました。
お志賀の方は、見事に家定の側室に選ばれたのです。
雑用係から大出世のシンデレラガールですが、大奥ではよくあること。
年上のお志賀の方は常に家定の側を離れず、家定の周囲に誰も近付けず、家定が誰かと会う場合でも、その身を気遣い後ろから世話をしたと言われています
またお志賀の方は気が強く、篤姫のもとへ家定が1度泊まれば、自分のもとへは2度泊まらないと承知しないという具合だったそうです。
こんなお志賀の方ですが、将軍の寵愛を頼んで権力をふるったり身内を引き立てたりすることはなく(この点が楊貴妃と違いますね)、大奥でもお志賀の悪評は立たなかったと言われます(立派!)。
10年前の『篤姫』では、鶴田真由さんが演じておられました。
島津斉彬の悩み
一方篤姫は温和で忍耐力があり、人と接するのも上手で、家定との仲はなかなか良好だったとか。
篤姫の養父・島津斉彬は、同じく一橋派の中心人物である福井藩主の松平慶永に、あまり大奥への工作を焦らないよう申し入れています。
一橋慶喜擁立工作で家定の機嫌が悪くなり、篤姫との仲がこじれることを心配したためで、篤姫の立場も、斉彬さまはちゃんと考えていました。
家定を暗愚とする説もありますが、それは一橋派の宣伝による所も大きいのかもしれません。
とりわけ水戸斉昭は、あからさまに将軍の無能を公言してはばからず、家定や家定生母の本寿院、大奥女中の水戸嫌いに拍車をかけていたようで、篤姫の大奥工作はうまくいきませんでした。
家定とハリスの面会
1857(安政4)年、島津斉彬とも親しい老中阿部正弘が病死し、一橋派は有力人物を失いました。
家定の病状も悪化していましたが、江戸城で開国を求めるアメリカ総領事ハリスをこの年引見。
「短い沈黙の後、大君(将軍)は自分の頭を、その左肩を超えて後方へぐいっと反らし始めた。同時に右足を踏みならした。これが3,4回繰り返された。」と、ハリスは日記に記しています。
この後家定は、よく聞こえる気持ちのよいしっかりした声で、国書を送られた事への感謝を述べたと書かれています。
病弱で人前に出ることが大嫌いな家定でしたが、為政者としての自分の責務はしっかり果たしたのでした。
一橋派の敗北
この翌年、老中が「松平慶永を大老職に」と上申した時、家定は「大老を出す家柄でもあり、優れた人物でもあるので、井伊直弼をさしおいて松平慶永に大老職を仰せつける筋はない。」と述べました。
一橋派の松平慶永を退け、将軍後継者に紀伊藩主の徳川慶福(よしとみ)を推す南紀派の井伊直弼を大老に選んだのは、確かに家定の意志でした。
1858(安政5)年5月、家定は大老・老中に、紀州藩主徳川慶福を継嗣と定めると申し渡します。
この申し渡しの背後には、大老井伊直弼の意向が働いていたでしょうが、将軍が直接申し渡したため、重みがありました。
井伊直弼は翌月、反対派を押し切って日米修好通商条約に調印。
7月6日に家定は35歳で病死しますが、大奥では水戸・尾張・一橋・越前などによる毒殺であるとの噂が流れたようです。
今回気づいたこと
徳川家定については「病弱」ということしか知らなくて、大河ドラマ『篤姫』で取り上げられてから、「奇行」の数々が知られるようになりました。
『西郷どん』で一橋慶喜が言ったように「上様は大うつけ」だったのか、それとも『篤姫』で堺雅人さんが演じたように、政治や周囲の人間が嫌だから「うつけのふり」をしただけなのか。
どちらが本当なのかわかりませんが、演じる人のイメージで、どちらにでも感じさせてしまうのが恐ろしいところです。
どちらにせよ、篤姫と心が通い合っていたようなので、篤姫も少しは大奥で幸せだった時もあったのかなと思いました。
コメントを残す