『夕鶴』と『武士道』から見えてきた、日本人とお金の問題

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鶴女房はお金が嫌い

木下順二の名作『夕鶴』は「鶴の恩返し」(鶴女房)の物語ですが、お金をめぐる鶴と人間の対立や葛藤の物語でもあります。

「つう」はお金が大嫌い。しかも、お金の話をする人間たちの言葉が理解できません。

でも彼女が、命の恩人「与ひょう」を喜ばせるために織った「鶴の千羽織」は、町で高値で売れるのです。

そのお金で「与ひょう」は大儲け。

田畑で働くこともなく、欲に目のくらんだ村人の「運ず(うんず)」と「惣ど(そうど)」も彼に接近。

純真な心を持っていた「与ひょう」ですが、村人らに焚きつけられて「つう」に布を織らせ、ついに悲劇が訪れたのでした。

「お金」に取り憑かれていく人間と、「お金」を理解しない鶴は、共通の言語を持たないから、お互いを理解することができなかったのです。

「お金に取りつかれてはいけないな」「つうがかわいそう」と、最初は思いました。

でも今年の3月にオペラを見た時には、別のことが気になって仕方ありませんでした。

「つう」と「与ひょう」がお互いを理解し、お金と共存することは、果たして不可能だったのでしょうか?

『武士道』もお金が嫌い

そう思ったのは、先月『武士道』(新渡戸稲造)を読んだからです。

この本は、外国人に日本の武士道を説明するために英語で書かれ、アメリカで出版されました。

10章「武士の教育と訓練」の中で、武士にそぐわない学問とされたのが数学、つまりお金の勘定。

金銭の損得について武士が口にすることは悪趣味であり、お金の価値を知らないことが良き教育の結果であるとされたのです。

お金は武士の魂を卑しくさせるものとされました。

江戸時代の身分制度「士農工商」で商業が最下層に置かれたのを、新渡戸稲造は『武士道』の中で、富と権力とを分離するためであったと説明しています。

これはあくまでも新渡戸個人の思想であり、実際は「農工商」には身分の差はなかったようですが、武士の立場から考えると、汗水流して年貢を納める農民より、経済を牛耳る商人を下に置きたかったのでしょう。

石門心学は町人の道徳

武士に蔑まれた江戸時代の商人ですが、彼らも道徳を持っていました。

それが、現在の京都府亀岡市に生まれた石田梅岩が創始した石門心学(せきもんしんがく)。

「商業の本質は交換の仲介業であり、その重要性は他の職分に何ら劣るものではない」という立場を打ち立てて、商人の支持を集めました。

営利活動を否定せず、「ビジネスの持続的発展」の観点から、本業の中で社会的責任を果たしていくことを説く石門心学は、「日本のCSR(企業の社会的責任)の原点」として、近年脚光を浴びているそうです。

司馬遼太郎さんの『菜の花の沖』で活躍する高田屋嘉兵衛など、江戸時代には魅力的な商人がたくさん登場しますが、武士道とはまた別の、彼らの倫理観があったのでした。

お金は汚いもの?

「士農工商」制度が廃止されてから150年近くが経とうとしています。

誰もが社会人になって何らかの仕事をし、職業に貴賤もないはずですが、「商売は卑しい」「お金儲けは悪いこと」という考え方が、今もなお(特にある一定の年齢以上の方々に)存在することは確かです。

私も夫も、「お金は汚いもの」「お金を触ったら手を洗いなさい」などと言われて育ちました。

「お金なんて誰が触っているかわからない」「バイキンがついているから」という親心もあったでしょうが、「お金(儲け)は悪い」という意識が底流に残っているような気がします。

「子供の前でお金の話なんて」というのも、家庭内でよく聞くセリフですね。

お金と賢く付き合おう

最近、奨学金が返済できずに自己破産に追い込まれ、連帯保証人となった家族も破産というニュースが相次いでいます。

現在の学校では、どの程度「消費者教育」「金融教育」が行われているのでしょうか。

また、「大学進学」「私立学校進学」というライフイベント=(超)高額商品の購入に際して、どの程度、本人を含めて家族で話し合っておられるのでしょうか。

好むと好まざるとにかかわらず、私たちは、お金を使って生活しなければなりません。

そのためには、お金のこと(家計や経済情勢も含めて)をよく知らないといけないのです。

お金に取りつかれて、振り回されるのもいけない。

でも無関心でもいけないし、むやみに嫌うのもよくない。

お金は、私たちが幸せになるための、ツールの1つです。

どうせなら、上手にお付き合いして、うまく使いこなしていきたいですね。

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