「成都」や「四川省」と聞いて思いつくのが、パンダと『三国志』と麻婆豆腐。
今回の私たちの旅も、この3個所と楽山大仏を訪れるのが目的です。
『三国志』ファンの聖地 成都の武侯祠
学生時代、NHKで放映された『人形劇 三国志』が好きで、よく見ていました。
成都は三国志の時代、劉備や諸葛孔明が治めた「蜀」の都。
劉備の子である劉禅が263年に魏に降伏し、三国の中で蜀は一番早く滅びましたが、小説『三国志演義』が蜀を正統としたため、劉備は善玉、曹操を悪玉とする物語として、広く知られています。
パンダ繁殖研究基地や、古き良き街並み「錦里」を訪れた後、錦里に隣接する三国志の聖地・武侯祠を訪れました。
ここに、あの諸葛孔明さんが祀られているのです。
ここはもともと劉備の廟があっただけですが、孔明さんの廟である「武侯祠」が移築され、蜀の建国・隆盛に功労のあった人々も祀られるようになりました。
劉備玄徳と武将たち
武侯祠大街(大通り)には、立派な大門がありました。
劉備は死後、諡号(しごう、送り名のこと)「昭烈皇帝」と呼ばれ、大門を入って最初の建物である劉備殿に、3mの劉備の座像が納められています。大迫力!
左右には、関羽や張飛の像もありました。下の写真は関羽さん。にこやかな関羽さんにびっくりですが、「関帝」(商売の神様)になった時の姿かな? 冠も皇帝っぽいし。
これは張飛。川本喜八郎さんの人形とは雰囲気が違いますが、やはり怖い顔です。
劉備殿には東西の回廊があり、東には文臣像を祀った文臣廊、西には武将を祀った武将廊がありました。
趙雲さんを見つけました! 冷静なイケメン武将というイメージでしたが、長生きした趙雲さんは、老人の像で表現されていました(右の像)。
孔明さんとご対面!
さらに進むと、諸葛亮殿。これが「忠武侯」と諡号された孔明さんの霊廟です。
中国各地に「武侯祠」は数多あるようですが、その中でも有名なのが、彼が丞相(じょうしょう 天子を補佐した最高位の大臣)として活躍した、ここ成都の武侯祠。
どうやらあそこに、孔明さんがいるようです。光り輝いています。
武候祠の柱の上の額に書いてある4文字(「名垂宇宙」)は「高名は宇宙に響き渡っている」という意味で、唐の時代の大詩人・杜甫がここを訪れ、孔明さんを称えて詠んだ詩の一節だそうです。
いた!孔明さん!! ちゃんと羽扇を持っています。イメージ通りでした。NHKの森本レオさんの声が聞きたいな。
どうか孔明さんにあやかって、もう少し賢くなれますように。
そして信じた人のために、まっすぐ生きられますように。
下の写真は、孔明さんの息子、諸葛瞻(せん)。
将軍として魏と戦い、36歳で戦死しました。書画の才能が豊かだったそうです。
諸葛瞻の息子(孔明さんの孫)、諸葛尚も、その時ともに戦死しました。
尚の弟・諸葛京の子孫たちが、現在も浙江省の「諸葛八卦村」で暮らしているそうです。
三義廟の英雄たち
さらに進んでいくと、三義廟という建物に出ました。
三義廟の建物に掲げられた「義重桃園」は桃園の誓いで生まれた義は重いということを指しています。
孔明さんがまだ出てこない『三国志』の前半部分では、劉備・関羽・張飛3人の絆が、とても印象的に描かれていました。
だから、ここに安置されている3人の像は、劉備殿の像とはとても雰囲気が違っていて、「桃園の誓い」の時のような、リアリティある像でした。
まず劉備。やはり優しそうで、人徳がある表情。
関羽さんは、イメージ通り。身分が高い人には反骨精神で接し、身分が下の人には優しく、義に厚い武将です。
「桃園の誓い」の時には肉屋だったという張飛。インド系の雰囲気ですね。これもイメージ通りでした。
建物の裏手には、その「桃園」も再現されていたようですが、本当の場所はここではないのでパス。先ほど訪れた「錦里」でも、桃園の誓いは再現されていました。
庭園で一休み
これらの建物の西側に、劉備と2人の妻の合葬墓「恵陵」があったようですが、私たちは朝から歩き回っていてとても疲れており、今回はパス(劉備さんごめんなさい)。
その代わり庭園で、他の中国人の観光客の様子をのんびりと眺めていました。
中国風の庭園は回廊が美しく、座るスペースもあってなかなか快適。
たくさんの中国人観光客を見ると、三国志の魅力は、中国でも日本でも(多分ほかの国でも翻訳されていると思います)今も健在だなと思いました。
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