留守家族の処分
島津久光の命令に違反した西郷隆盛は、捕縛されて鹿児島に護送され、大島吉之助と改名の上、徳之島へ遠島処分となりました。
同行していた郷中仲間の村田新八は、喜界島へ遠島。
1862(文久2)年7月2日に、西郷は徳之島の砂糖積出港・湾屋港(現・天城町)に上陸しました。
2つの島と鹿児島との位置関係はこんな感じです。
一方鹿児島の西郷家では弟の吉二郎と小兵衛が遠慮(自宅での篭居命令。夜間の秘かな外出は可能)、京都で勤王倒幕活動を志し、寺田屋事件で投降した信吾は、年少のため謹慎処分となりました。
藩主の命に背いた西郷家の知行・家財は没収され、上之園の借家で暮らしていた留守家族は、最悪の状態に追い込まれていたのです。
奄美大島潜居は、幕府の追求から西郷を匿うための藩の措置であったため、西郷にも鹿児島の家族にも扶持米が支給されました。
しかし、今回は西郷が罪人としてので扱いあったため、留守家族は辛酸をなめることになるのですが、この辺りの話は、ドラマでは全然出てきませんね。
これを描かないと、特に吉二郎が評価されないのではないかなと思いました。
一途な愛加那 徳之島で妻子再会
西郷が徳之島に上陸した同じ日、奄美大島では、愛加那が長女・菊草(菊子)を出産しています。
西郷からの手紙を受け取った愛加那は、子供2人を連れて8月26日に徳之島を訪れ、久々の親子再会を果たしました。
乳幼児を連れての船旅も辞さなかった、愛加那の行動力!素晴らしいです。
徳之島での西郷は、島の西部に位置する岡前(天城町)の松田勝伝方に謫居していました。
扶持米はなかったけれど、身柄を拘束されることはなく、島民との交流もあったとか。
村の青年達と力比べをした石(66kg)が、今でも残っているそうです。
謫居跡に隣接する高台で、東シナ海を眺めていたという西郷隆盛にちなみ、現在は県消費も設置された「岡崎西郷公園」が整備されているそうです。
沖永良部島での牢生活
ところが島津久光は、西郷が家老達によってこのように軽い処分になっていると知り、沖永良部島へ島替えの上、牢込めにして、決して開けてはならぬと厳命したと言います。
よほど西郷は、久光に嫌われていたのだということがよくわかります。
愛加那と再会した翌日、この久光の命令が徳之島に届き、西郷は島東部の井ノ川に移され、そこから沖永良部島へ出航しました。
失意の愛加那たちは28日に奄美大島へと帰っています。
藩命で舟牢に入れられた西郷は、閏8月14日に沖永良部島の伊述に上陸しました。
西郷の牢は、僅か2坪の吹きさらしの格子牢。
暑い南国の日差しや風雨が直接牢に入り、波しぶきや砂もまともに牢に吹き付け、昼は金蝿、夜は蚊に襲われる生活のため、西郷は次第にやせ細り、体力も限界となりました。
一説によると西郷は、沖永良部島で風土病のパンクロフト糸状虫に感染し、その後遺症によって陰嚢が人の頭ほどの大きさに腫れ上がり、馬に乗ることができなくなったと言われています。
命の恩人・土持政照
島での警備役・間切横目(まぎりよこめ)を務めていた土持政照(つちもちまさてる)は、このような瀕死の西郷を見かねて、代官の許可を得て自費で座敷牢を作ります。
土持は、島上陸以来の西郷の礼儀正しさに心を打たれていたのです。
西郷は座敷牢へ移り、土持の家族から手厚い看護を受けました。
西郷は土持の親切に感激し、6歳年下の彼と義兄弟の契りを交わしたのです。
沖永良部島での日々
翌年、同じ郷中の後輩が詰役として来島し、西郷の待遇はより一層よくなりました。
西郷は座敷牢の中で塾を開き、島民達に学問を教えました。
また遠島処分を受けていた陽明学者・川口雪蓬(せっぽう)も、毎日牢を訪れて西郷を慰め、書や詩の作り方を教えたと言います。
西郷は牢獄生活を「天からの試練」と受け止め、天命を自覚し自己修養に努めました。
「敬天愛人」思想を体得したのは、この時期だとされています。
台風や干ばつ、飢饉の起こりやすい沖永良部島のために、豊作の時に穀物を蓄えて、飢饉の時にそれを配分するという「社倉趣意書」も、西郷は土持に与えました。
現在も沖永良部島には、和泊町立西郷南洲記念館があり、沖永良部島での西郷隆盛の様子を伝えています。
さらば沖永良部島 さらば愛加那
1864(元治元)年2月21日、吉井友実と、謹慎から許された弟の信吾が、赦免の使者として沖永良部島に到着します。
約1年7ヶ月に及ぶ牢獄生活を終えた西郷は、足腰が衰弱していましたが、鹿児島へ戻る途中、奄美大島で3泊して愛加那や子供達と過ごしました。
これが愛加那との、今生の別れとなりました。
村田新八さんの影が薄い!
西郷は喜界島へも立ち寄り、同じく遠島処分となっていた村田新八を連れ帰っています。
島津久光の命令はなかったけれど、西郷にしてみれば、「自分が許されるときは、新八も許されるときだ」と感じたのでしょう。
またまた島津久光の命令違反であると咎められるのも覚悟で、西郷は、大事な後輩を連れ帰ったのです。
こういうシーン、もっとちゃんと描いた方がいいと思いました。
明治になって村田新八さんは、岩倉使節団の一員として欧米を見た薩摩出身者の中でただ一人、西南戦争では西郷軍の幹部クラスとなりました。
大久保利通らの近代化路線を肯定しつつ、この時の西郷への恩を忘れなかった村田さん。
ただでさえ気の毒なのに、このドラマの描かれ方を見ると、さらに彼が気の毒になりました。
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